【2024注目の逸材】
きむら・しんた木村心大
[東京/6年]
ふなばし船橋フェニックス
読売ジャイアンツジュニア
※プレー動画➡こちら
【ポジション】投手、三塁手
【主な打順】一番
【投打】右投右打
【身長体重】152㎝50㎏
【好きなプロ野球選手】植田海(阪神)
※2024年11月5日現在
そこには無垢な夢しかなかった。
「一番、ピッチャー、木村」
自らウグイス嬢も務め、バットを持って仮想の打席へ。そして今度は一人で実況もしながらスイングし、仮想の一塁へ走って、守備や審判までやる。
「良い当たりだぁ! でもこれはサードの正面、1アウト…」
物心のつかぬうちから、ゴムボールとプラスチックバットを手に一人、“プロ野球ごっこ”に興じていた長男坊。この夏休み中も連日、自主練習に励んだが、母親の目には幼児期からの“ごっこ”の延長にも映っていたという。
「それが彼の原点なんだろうなとは分かっているんです。ただ、やっぱり、もっと突き詰めてやっていくには…」
木村心大の母・美香さんはかつて、実業団に所属するエリートランナーだった。全国高校女子駅伝で2回の優勝を誇る兵庫県の名門・須磨学園高で鳴らし、全国駅伝では3区を走っている。そんな元トップアスリートには、長男の牧歌的な鍛錬が微笑ましくもあり、歯がゆさも感じているという。
「私自身が陸上ではすごく苦労して、人から言われてやらされていた感じでしたので、シンタ(心大)には同じ苦労はさせたくないなと思っているんです。言われなくてもやってほしいので、そういうふうに仕向けてはいるんですけど…」
生粋の野球バカは、野山を好きに駈け、好きに草を食む野生馬のごとく。フィールドが遊び場であるかのように、いつでも奔放に存分にプレーしている。そんな木村の原風景は、冒頭のような幼少期にあるようだ。
本気の道化師
「怒られるときもありますけど、野球をやめたいと思ったことはないですね。一番覚えているのは、船橋フェニックスに入った年長(就学前)のときに、練習でアウトになって泣いていたこと」
激情もやはり、天然もの。だから嫌味がなくて、擦れた大人は憧憬をもって感情移入してしまうのだ。
今夏の全国大会は3回戦で前年王者に大敗も、マウンドで気を吐いた。バント処理で三塁フォースアウトを奪うなど、身のこなしもキラリ
「どうやったら打たれないか、どうやったら抑えられるか、自分でもいろいろ考えて工夫してやってきて。今は勝負どころで強いピッチングができるところがアピールポイントかなと思っています」
きれいに力強く振られる右腕と、踏み出した足に乗り切ってのリリースから繰り出す速球はMAX106㎞。これをベースとしつつ、横から投げたり、下から投げたり。打者に背を向けるトルネード投法もあるし、大きなモーションから大声を発してのスローボールもある。
さらに余裕があれば、リリースと同時に帽子が落ちるように、振りかぶった際に細工(おそらく)をすることも。
あたかも、マウンドの道化師。今春までは、そういう路線に走ると制球が乱れ、降板することもしばしば。だが、それを面白がる仲間たちがいて、ベンチは頭ごなしに叱責するような堅物ではなかった。もちろん、変幻投法は指導によるもではないが、先のコメントにあるように本人は至って真剣なのだ。
「抑えられたらうれしいし、ホームランを打てたらうれしい。でも一番うれしいのは、みんなで協力して点数を取って勝つことですね」
ベースとなるオーバースローはきれいで球威も十分。夏時点で最速106㎞
甘んじて苦いマウンドも経験しながら、制球力を増してきた木村は、夏場の前あたりから輝きも増してきた。徐々に勝負所を任せられ、こん身の1球でストライクを奪っては吠えるように。厳しい場面でアウトを奪えば、派手なガッツポーズでまた腹の底から叫ぶ。
「ヨッシャー!」
結果へのリアクションは計算外で、あくまでも自然なものだという。それはまた何も、自身に対してとは限らない。東京3冠目に輝いた7月の都知事杯決勝では、こんな一幕もあった。
木村は第2打席で、鋭い打球を右中間へ。飛んだ瞬間にランニングホームラン! という当たりだった。しかし、これを全力で追ってきた相手の中堅手が、スーパーキャッチして3アウトに。一塁を少し回ったあたりでその瞬間を見た木村は、ズッコケたように尻もち。そしてゆっくり立ち上がると、中堅手を指差してから手を叩き、「あれはうまい!」と何度もつぶやきながらベンチへ(動画参照)。
そういう天真爛漫な野球少年は、探せばまだいるのかもしれない。だが、超難関の全国大会では他に見た試しがない。
世代トップクラスのタレント軍にして、キャラが各々に立っている。今風に言えば『クセスゴ!』、クセがスゴすぎるのだ。それが今年の船橋フェニックスというチームのカラーであり、大きな魅力だった。
互いに切磋琢磨するライバルでありながら、試合になると結束する。息苦しさや重苦しさのようなものとは無縁のまま、新人戦で最高位の関東王者に輝き、全国予選と都知事杯の「東京3冠」を達成した。その大元であり、土壌を築いていたのは木村剛監督。心大の実父だった。
黙して見守る大きな背中
30番の背中が大きくて頼もしい。身長は180㎝以上。高校まで野球を続けてきた木村監督は、名門・福岡大で念願のラガーマンとなり、FWとして大学選手権に4年連続で出場した実績を持つ。
ラグビーは選手の主体性を重んじるスポーツで、試合中の監督はスタンドにいる。中学からこの競技に憧れていたという木村の父は、学童野球の学年監督となっても選手の自主性と個性を認め、束縛は最低限に留めてきたようだ。息子の心大に象徴される、自由闊達なムードが決め手となり、移籍してきたタレントが複数いるというのも頷ける。
「家でも息子に対して、ああしなさい、こうしなさい、というのはボクはあまり言いませんね。そのへんは嫁が…。本人がこのまま野球で次のステージに行きたいと言っているので、それは応援してあげたいなと思いますけど、どうなるかは分かりません」
打撃はややムラがあるものの、7年通算で70本塁打超。全国予選決勝では逆転2ランも放っている(下)
木村は巨人ジュニア18人の中に選ばれている。むろん、実力が評価されたのだ。「監督の息子だから試合に出ている、と思われないように頑張らなきゃ!」と、低学年時からハッパをかけ続けてきた母も安堵したことだろう。
年末の学童球児の祭典「NPBジュニアトーナメント」でプレーすることは、夏の全国出場にも等しく至難で、全国の学童球児の大きな夢。この祭典から巣立った選手も毎年必ず、プロ球団からドラフト指名されている。
木村は現時点で、ひと握りのトップレベルにいるのは間違いない。ただし、その息子に先んじて、甲子園出場やプロ入りを促すような気はまるでないと父は語る。
「本人のスイッチがそこに入れば、そういう歩み方をするんでしょうね。ウチは娘(木村の姉)も今は大学でシンクロをやっていますけど、2人の子が小さいころからスポーツ観戦にあちこち連れていったんです。ボクが好きなので。シンタの人生でもスポーツというものには何らかの形で絡んでほしいなとは思います」
やるもやらないも、決めるのは親ではない。一人で“野球ごっこ”をしていた木村がチームに入ったのも、1年生の終わりから自宅で父と練習をするようになったのも、本人の意思によるものだった。
「パパ、お願い!ボクの練習に付き合って!」
切実なこの一言で、父子の朝練が完全に日課となったのは、3年生の秋のこと。きっかけは、ジュニアマック(4年生以下の都大会)出場を賭けた世田谷区大会決勝での敗北。未経験のタイブレークでマウンドを任され、大炎上したのが木村だったという。
「あれはキツかったです。うまく立ち上がれなくて6点取られて負けて、自分でも悔しくて…。あの次の日から毎朝、公園でお父さんとやっています。ティーで100ぐらいは打つ。6年になってからは直井クン(翔眞=右翼手)も一緒に」
では、木村本人は自身の未来をどう描いているのだろうか。
「まぁ、小学生までの経験を生かしながら、中学でやっていきたいなと思います」
現時点では、その先へは考えが及ばないという。他方、両親に面と向かっては言えないことも、記事を通してなら伝えられそうだと言った。
「お母さんはいつも、栄養面とかも考えたご飯をつくってくれて、野球関係の洗濯とかたいへんなこともしてくれる。お父さんには毎日、練習の相手をしてもらっているし、そういう環境とか、きっかけも与えてくれたので。お父さんがいなかったら、今のボクもなかったかなと思います。『ありがとう!』と伝えたいです」
9月8日、都王座決定戦の決勝で敗れて史上初の「東京4冠」はならず。見逃し三振で最後の打者となり、号泣する仲間をフォローする姿があった
どこで仕入れてきたのか、中南米の選手たちが口にする「行こうゼ!」を意味するスペイン語を、木村は試合中によく発する。
「バモス!(vamos!)」
まだまだ高音域にある声が、フィールドによく響く。それが思春期を通じて、プレースタイルとともにどのように変わっていくのか。やがて父親の背中に並んだころ、どこで何をしているのだろうか。
昭和の時代なら真っ先に叩かれるか、強引に歪められたであろう、飛びっきりの個性。それがこの令和の時代に、どういう経過を辿っていくのか。ある意味、野球界全体が試されているような気もしないではない。
まずは12月末、巨人軍のユニフォームに袖を通した木村が公にデビューする。
Vamos! chico alegre!!
(動画&写真&文=大久保克哉)