同じ関西勢。大会公式パンフレットでは、見開きページの左右に並ぶ兵庫と奈良のチームが、決勝の椅子をかけて激突した。高円宮賜杯第44回全日本学童軟式野球大会マクドナルド・トーナメントの準決勝第2試合は、6回表まで0対0という珍しい展開に。迎えた6回裏、北ナニワハヤテタイガースが中川翔斗の適時二塁打でサヨナラ勝ちした。先発のエース・山口琉翔は、被安打3の無四球完封。敗れた牧野ジュニアーズも、田中瑛人主将が5回無失点と好投し、初出場ながら銅メダルに輝いた。
(取材&文=大久保克哉)
(写真=福地和男)
兼ねてより互いを認知していたという両軍だが、コロナ禍や荒天などで交流試合はなかなか実現せず。初対決が、全国準決勝という舞台に
準決勝
◇8月21日 ◇明治神宮野球場■第2試合
[奈良]初出場
牧野ジュニアーズ
000000=0
000001x=1
北ナニワハヤテタイガース
[兵庫]2年連続4回目
【牧】田中、鶴岡-田仲、田中
【北】山口-矢之文
二塁打/山口、中川(北)
北ナニワの山口(上)と、牧野の田中主将(下)が、5回までともに無失点の投げ合いを演じた
来年度からは使用が禁止される、一般用(大人用)の複合型バット。打球部が別素材でできており、インパクト時のボールの変形を抑える分だけ、飛距離が増すという優れもの。
「野球を変えた」とも言われる、その“飛ぶバット”が全盛でも、全国大会になるとロースコアのゲームもままある。それだけ投手と守備のレベルも高いということだろう。ただし、終盤戦まで0対0のゲームとなると、昨今の全国大会でも相当にレア。今夏も50試合の中で、この準決勝の第2試合だけだった。
2回表、牧野は迎井が中前打(上)。その裏は北ナニワの上石(5年)が左前打(下)。しかし、後続が倒れて無得点
北ナニワハヤテタイガースは山口琉翔、牧野ジュニアーズは田中瑛人主将。先発した両右腕の快投によって、5回を終えてもスコアは0対0。ただし、どちらの右腕も、剛速球で三振の山を築くというタイプではなかった。
大きな括りで言えば、軟投派。打たせて取るタイプだ。コンパクトなテイクバックが共通しており、必要なところで適度に力を与えられたボールの多くは、捕手の構えたミットの方向へ。
初回には双方の守りにミスもあったが、両右腕は落ち着いて後続を打たせて取った。2回表には牧野の迎井福司が、その裏には北ナニワの5年生・上石弦が、それぞれ一死からクリーンヒットを放ったものの、生還はできなかった。
大人用複合型バットも何の!
「ボクは県大会が終わった(全国出場決定)後から、打たれ過ぎて良いピッチングができなくて。速いボールを投げたいと思っちゃっていたので、コントロールが悪くなって、フォアボールを出してから甘く入った球を打たれる感じで…」
大会前の自分をこう振り返ったのは北ナニワの山口だ。反省と教訓が十分に生かされた、この日のピッチングだったのだ。終わってみれば、無四球で散発の被安打3。走者は何度も背負ったが、毎回の先頭打者で確実に1アウト目を奪ったことで、試合巧者の相手に思うような攻撃をさせなかった。
4回裏、北ナニワは先頭の矢之文の左前打(上)から一死一、二塁、さらに二死二、三塁としたが0点。初回に打球をファンブルした牧野の三塁手・福田新だが、以降は毎回の守備機会で確実にアウトを奪った(写真下は4回裏)
一方の、牧野の田中主将は「(連戦で)体は重かったけど、ボールを置きにいかないことだけは意識しました。ピッチングについては悔いありません」と、振り返っている。
5回68球でお役御免となるまでに、与えた四死球は1。それも初回の申告敬遠だった。べンチの指示で勝負を避けた北ナニワの四番・矢之文太には、4回の第2打席で左中間へヒットされ、さらに内野安打などで一死一、二塁のピンチとなるも、後続を内野ゴロ2つに打ち取ってみせた。
5回裏、北ナニワは一死から山口が右中間へ二塁打(上)。続く二木正太朗が犠打(下)で二死三塁としたが、得点に結びつかず
突飛な守備陣形
走者は出るが、どうも本塁が遠い。攻撃側からすると、こう着していた試合の中で、際立っていたのが北ナニワの特異な守備陣形だった。バッテリー以外の7人は、必ずしも定位置で守らない。とりわけ大胆で、肝になっていたのが二遊間の位置取りだ。
プロ野球や大学・高校野球でも使用される神宮球場は、全面人工芝。内外野を区分(視覚上)するインフィールドラインがない代わりに、内野側は土色のエリアが広がる。その土色を超えて、外野の緑色の上で内野手が待球姿勢に入ることは、学生野球ではあまりない。
北ナニワの変則陣形の一例。二塁手が右中間の浅い部分、一塁手が二塁ベース寄りに位置(上)。牧野も守備が鍛えられており、遊撃手・坂地隼和(下)はその象徴とも言えた
でも北ナニワは違った。ざっくり言うと、外野4人シフトを時折り採用した。遊撃手は左中間、二塁手は右中間の、それぞれセンター寄りの最も浅い部分に交互に立つことがあり、それに応じて三塁手を三遊間寄り、一塁手は一・二塁間寄りに配置。これが見事にはまったシーンが、5回表にあった。
牧野の八番・田仲辰旭が放った、強めのゴロ打球は、定位置の守備相手ならセンター前ヒットになっていた可能性が高い。だが、予めセンター寄りの外野エリアにいた二塁手・髙橋丞彪が、この打球を捕ってから一塁へ遠投し、ギリギリでアウトを奪ってみせた。
6回表、牧野は三番・吉岡樹希(写真上=3回の二直)と、四番・番匠隼平(下)で初の連打も、得点はならず
勝ち続けている最中とあってか、「少年野球やから、できることですけどね」と、石橋孝志監督は守備陣形についてはあまり多くを語らず。遊撃兼投手の北嶋隼士主将が試合後、特別な陣形は数パターンあることを教えてくれた。
「相手のバッターの左右とかタイプ、キャッチャーが出すサインに合わせて、自分たちで予測したり、考えて位置取りをしています」(北嶋主将)
あっさりの結末
さて、試合のほうは6回裏、意外とすんなりと決着することに。先頭の矢之文が死球で出てから、内野ゴロで二進。そして六番・中川翔斗が、7球粘ってのフルカウントから、左中間に放った一打がサヨナラ二塁打となった。
6回裏、一死二塁から北ナニワの六番・中川が左中間へ二塁打を放ち(上)、二走の矢之文が一気に生還(下)してサヨナラで幕
北ナニワはこれで2017年以来、7年ぶり3回目の決勝進出。1988年以来、36年ぶりの日本一に王手をかけた。
「打ったのはたぶん、低めのストレート。自分のスイングができたので(当たった瞬間に)、抜けたと思いました」
ヒーローの中川は、この全国大会を前にレギュラーの座を獲得。自身2度目のサヨナラ打だったという。「前回はろうきん杯という大会の、たぶん1回戦。そのときは右中間にサヨナラホームランでした。全国は楽しいです」
※中川翔斗選手の記事を寄稿しています➡こちら
―Pickup Hero―
球速追求は小休止。打たせて奪った16アウト+1K+1併殺
やまぐち・りゅうと山口琉翔
[北ナニワ6年/投手兼遊撃手]
決勝進出をかけた重要な一戦で、エース右腕が大きな仕事をやってのけた。6回を66球、3安打1奪三振というパーフェクトに近い内容で、完封勝利を挙げたのだ。
準々決勝で9四死球を選んだ相手打線に対して無四球。相手の積極打法も関与したが、ボール3になったのは開始直後の先頭打者に対してだけ。序盤には相次いだバックのミスからスコアリングポジションに走者を負ったが、ペースもコントールも乱れることはなかった。
「緩くてもいいから、ストライクが入る球で打たせて取る。まだボクは背がちっちゃいほうなので、『背が伸びて大きくなったら速い球を投げなさい!』と監督に言われています」
山口琉翔は、指揮官の教えを忠実に守った結果の快投だったと話した。
確かに、制球を最優先にした投球フォームであることは、フィニッシュ後も体勢がほぼ崩れないことからも分かる。終始、力みがなくバランスが取れており、打撃投手のようにコンパクトな腕の振りから、左右へとボールを散らして凡打の山を築いていった。
ある意味、大人のピッチング。ただし、それを本気で実行し、結果も伴うようになったのは、この夢舞台に来てからだという。投手たるもの、人より少しでも速いボールを投げたくなる。あるいは、打者を力でねじ伏せたくなるものだ。未来のある子どもであるほど、その欲求は増すのかもしれない。
山口もまた球速に執着してきた。しかし、全国出場を決めてからの実戦ではボコボコに打たれてばかりだったという。それでも石橋孝志監督は、登板機会を召し上げるようなことをあえてしなかった。
「自分で痛い目をみとかんとね。それまでも『オマエのボールがなんぼ速いいうても、知れてるやろ。身体が大きくなったら、オマエのやり方をしたらええ。せやから今は我慢せえ!』と、何度も言うてきかせたんやけど、ふくれてまう(笑)。やっと、結果も出てきてるので本人もわかってきてると思います」(同監督)
試合中の石橋監督は、ベンチ最前列で選手と選手の間にいる。いちいち感情的にならず、発する言葉は短いが個々をよく見ている
過去に日本一にもなっている名門チームの背番号1だ。それくらいの向こう気もプライドも、あって当然だろう。
「今日は途中で球数も何回か確認したんですけど、人に任せず自分で最後まで抑える気持ちで投げました」
準決勝は継投で登板予定だった、北嶋隼士主将と二木正太朗は肩を休めることができた。これで明くる日の決勝は2人に任せられるのでは? そう水を向けると、穏やかな口調で毅然とした答えが返ってきた。
「ボクは明日も投げるつもりです。新家(スターズ)さんには5年生の春に、1対2でサヨナラ負けしていて、そのときのピッチャーがボクだったので。その借りを返したいです!」
打線ではトップバッター。4回には右中間へ二塁打を放っている
―Good Loser―
全国初陣で、いきなり銅メダル。果敢なスタイルで大きな収穫
まきの牧野ジュニアーズ
[奈良]初出場
3位
【戦いの軌跡】
2回戦〇10対4里庄町(岡山)
3回戦〇4対3東郷(福井)
準々決〇8対4宮ノ下(鳥取)
準決勝●0対1北ナニワ(兵庫)
『五条の豪華スター…』
スタンドの保護者らが歌うオリジナルの応援ソングは、品があって耳にも残るメロディだった――。はずなのに、いざ、記事に起こそうとすると、さっぱり続きが浮かんでこないのは、筆者と加齢の問題だろう。
日本最大の紀伊半島の中央あたり。奈良県の五條市には現在、学童チームが2つしかない。1981年、16チームで開催された第1回全日本学童大会に五条ドンキーズが出場したが、すでに跡形もないという。
だが、1977年に発足した牧野ジュニアーズが、その夢舞台に初めてやってきて3位という、大躍進を遂げた。かつては名門チームが多かったという五條市の界隈で、溜飲を下げた人も多くいることだろう。
大学生の長男、中学生の次男、そして6年生の三男と、3兄弟の父・田中監督。指揮官となるのは今年度が初めてだった
創立から47年目のチームにとっても、快挙と言えるはず。これを成し遂げた監督は、チームとしては異例の「父親監督」だった。田中瑛人主将の父、田中章夫監督が従来の不文律を教えてくれた。
「ウチのチームは、監督をやるとしても息子が卒団した後からという決まりみたいなものがあるんです。でも、今年の代はどうしても! ということで私が監督を引き受けました」
6年生は11人で、スタメンも全員が最上級生。その大半が3年生あたりから一緒にやってきたとあって、継投やそれに伴う布陣の変更もすっかり慣れた様子。ベンチとのやりとりを含めて、試合中に戸惑うような選手がいない。また、打つしかない場面で1球ずつ指揮官を見るような打者はおらず、初球ストライクからのフルスイングも特長だった。
「子どもたちもボクもバッティングが好きなので、こちょこちょしたり、合わせにいくことはしない。しっかり振るのが信条です」(田中監督)
左腕エースの鶴岡(上)は、前後にも広い中堅守備でもチームに貢献。正捕手の田仲辰旭(下)はバウンドストップも安定、ハイペースで投手陣をリードした
荒天により、翌日への継続試合となった3回戦では、再開後の5回表に2対3と逆転されるも、その裏に番匠隼平の2点二塁打で逆転勝ち。
同日2試合目の準々決勝は、2回にスクイズバントを決めて5回に適時二塁打を放った九番・倉好結真に象徴されるように、大技小技で8得点。積極打法でもボール球には手を出さずに計9四死球、勝ちゲームを締めた背番号1の左腕、鶴岡歩夢のキレのある速球も光った。
「鶴岡は調子を落としていたんですけど、球数のことなどもコーチ陣で話している中で、最後にエース番号の役目を果たしてくれました。ウチは全員野球で次につなぐのが最優先ですけど、足も使えて小技もあって、それで打てる。この3つを相手に応じて臨機応変にという感じです」
準決勝の5回も無失点で終えた田中主将は、笑顔でベンチへ
指揮官の言葉にも確信が芽生えてきて迎えた準決勝は、思い切って好調の打者を中心に据えたが、結果には結びつかなかった。互いに打たせて取りながら0行進の末に、サヨナラ負け。直後は涙もあった6年生たちだが、5回無失点の快投を演じた田中主将は「やり切りました! みんなのつなぐ意識と勝つという気持ちで、ここまで来られました」と、表彰式後は清々しい表情で夢舞台を振り返った。
3兄弟の末っ子の田中主将は、父親でもある監督に対してのコメントは「特にない」と素気なかった。しかし、父のほうは素直に思いを口にした。
「息子と一緒の全国は最高でした! 来年から息子はおらなくなりますけど、監督としては逆にやりやすいと思います。下の学年の親御さんたちが『何とか自分たちの代でも全国に!』と言うてくれてますし、やるからにはまたココ(全国)を目指して、がんばります」
今夏の時点で5年生が2人、4年生が5人と、頭数は厳しい状況だが「みっちりと鍛えて来年も狙いますよ」と田中監督。あの固有の応援ソングも、早ければ1年後の新潟のスタジアム(来年度の全日本学童大会)で耳にできるかもしれない。