毎月、次々と新規アイテムの発売を続けるフィールドフォース。そこまで頑張らなくても……と思わなくもないのだが、そこにこそ、この会社の信念と哲学がある。熱量のあるプレゼンテーションと忌憚のない議論により、無から有を生み出し、それを形づくる。新商品を生み出す過程の中にも、フィールドフォースらしさが詰まっている。
ボールパークの「離れ」では……
東京都足立区にあるボールパーク足立1、2の敷地に、事務所用の「離れ」がある。現在は「プリント工房」としてオーダーTシャツの制作などのために稼働しているが、ボールパーク開業当時は、フィールドフォースのアンテナショップ兼ボールパークのレジカウンターだった。
その「離れ」の2階は、現在は事務所兼スタッフ控室になっているが、かつて学習塾だったことがある。「個別指導学院Hero's(ヒーローズ)竹ノ塚校」は外部学習塾への場所貸しではなく、フィールドフォースが直接、運営にあたっていた。講師は全員、フィールドフォースの社員。現在も社員が講師を務める野球教室「エースフォー」はあるが、かつては野球だけでなく、勉強も教えていたのだ。
かなり特殊な状況ではあるが、フィールドフォースらしいといえば、らしい。とにかくNGはなく「やってみなはれ」の世界である。
フィールドフォースは建設屋!?
現在は千葉県柏市にあるフィールドフォース本社。エントランスで目を引くのは、社長・吉村尚記の名前の建築業許可証だ(練習場の施工時に必要)。
「初めて入ってきたお客さんが、『フィールドフォースって、建設屋さんなんですか?』って。なんの会社かと思われますよね」
ボールパーク事業部長の成田雄馬が笑う。彼は北海道で札幌と旭川のボールパークを立ち上げたときの初代店長だ。
「北海道のボールパークのオープン当時は、会社の名前もほとんど知られていませんでしたし、多くのお客さんにとって、フィールドフォースは、練習場の運営会社という認識しかなかったみたいですね」
もちろん、間違いではない。むしろ、考えれば考えるほど、正解である。
「『いえ、野球用品や、野球のトレーニングギアなんかを作ってるメーカーなんですよ』とは答えてましたけど、考えてみれば、普通のメーカーでは、あまりないことでしょうね。かつては僕もヒーローズの講師をやってましたし、とにかくフィールドフォースは会社の間口が広いというか、いろんなことをやっている」
そして、続けた。
「いろいろやってるから、ユーザーとの距離も近くて、現場の声もたくさん届く。横のつながりも幅広くて、それらがすべてつながっているというか。とにかくボールパークでは、いろんなアイデアをもらいます。そして、自分が動くことで反応があり、何かが生まれる。『自分たちが動いていこう』っていうのはもう、社風なんでしょうね」
成田はそう言って、うなずくのだった。
NGなき商品企画開発
次々と世に送り出される、フィールドフォースの商品は、こんな土壌だからこそ生み出されているのだろう。
企画開発会議の初期からのメンバーである、今泉翔太が回想する。
「バランスハット(FBHT-8M)という商品があります。自分がプレーヤーとして、練習するときに意識していたことなんですけど、バッティングでも守備でも、頭の位置を動かさないっていうのがあって。それを形にしてみようと思ったんです。頭の上に、水を入れたたらいを乗せていろんなことをする、お笑いの動画を見せてプレゼンしたんですよね。そしたら、『それ行こう』ってなって。即決でした。われながら衝撃でした」
企画開発会議の中心メンバーである、企画開発課課長の小林夏希の元には、彼女の親しみやすい性格が引き寄せるのか、多くのアイデアが集まるようだ。
「スイングの時に『トップハンド』と『ボトムハンド』で別のグリップを持って振る、トップハンドグリップ(FTHG-2212)が生まれたのは、私の高校、大学時代の恩師で、いまは履正社高校女子野球部の監督をされている、橘田(恵)さんのアイデアからです。スローイングパートナー(FSLP-18)や、くるくる巻いて持ち運べる、どこでもホームベース(FDH-43N)もそうかな。彼女のアイデアは、いろんな商品になってるんです」
それだけではない。
「ノックラケット(FKR-5325)は、ボールパークに子どもと一緒に来ていた、お母さんとの会話から誕生しました。いろんな方から、新商品のヒントがもらえるんですよね」
あらゆる方面にアンテナを張って、それが有用となれば、商品化の方向で話が進む。「よし、それで行こう」。そうして、フィールドフォースの新商品は次々と製品化されてゆく。
成田はこんな考えを口にする。
「新商品も、まったく新しいものを作り出すパターンと、これまであるものを改良したり、変化をつけて形にする方向性がありますよね。僕は縦軸、横軸って考えてます。そして、中には、そのどちらかだけとも限らなくて、アイデアを掛け合わせることによって、また新たなものが生まれることもあるんだなあって、実感するときがあるんです」
成田の試打がきっかけで生まれたという、モンスターウォール(FKMP-2116BLK)と同じ素材を使ったオートリターン・投打ネット(FTM-280ARTAN)をはじめ、ネットやマシン類には、そうして生まれた商品も多そうだ。
人とのつながりが、さらに人を呼んで……
人と人とのつながりが、さらなるつながりを呼ぶのだろう、フィールドフォースの名はなかなかのスピードで広まっているようで、企画開発会議がスタートした当時と比べても、高校や大学などの野球部、さらに社会人チームやプロ野球球団まで、幅広い分野のチーム、選手からの声が掛かることが増えた。さらにいえば、野球ではない他分野のスポーツ関係者からも……。
「商品の購入だけでなく、『こんなものないでしょうか』というリクエストや、新商品のご提案までいただきます。ありがたい限りです」
吉村はそう感謝する。
また、フィールドフォースとパートナーシップを結んでいる井端弘和さんは、侍ジャパンの監督となった現在も、忙しい時間を縫ってボールパークを訪れ、開発中の商品に対して感想や、アドバイスを送り続けてくれている。ほかにも、井端さんの盟友でもある、元NTT東日本監督の飯塚智広さんをはじめ、前沢力さん、相澤一幸さん、緑川大陸さんなど、いまでは多くの外部の方々の提案から、新たな商品が生まれている。
「創業当時には、想像もしてなかった状況です。振り返ればやはり、多くの人たちとの出会いと、その思いに必死に応えてきた結果なのかなと思います」
吉村はそう言い、続けた。
「これも創業当時、われわれの思いに応え、フィールドフォースの商品を大々的に展開してくれたスポーツ量販店さんの決断が最初にあったから。そして商品開発にしろ、販売にしろ、われわれの軸足は常に、学童・少年野球にあるということ。そうした恩だったり、基本だったりを忘れることなく、続けていくことが大切なんだと思います」
エアフライの場合
すでに定番化しているジュニア用のスポーツサングラス・エアフライのラインアップに、つい最近、新たに2種類のミラータイプが加わった(FAF-101JBK-GMとFAF-101JBK-BL)。
数あるフィールドフォースの商品ラインアップの中でも、エアフライの取り扱いは特殊だ。そもそも、自社製造商品ではなく、フィールドフォースは商品販売に徹しているのだ。
この関係性は、すでに商品化されていた大人用の実物を見た吉村が、製造元であるジゴスペック社に連絡を取ったことから始まった。
「とある売り場で、大人用のエアフライを見たんです。一目ぼれでした。このサングラスの特長は、ノーズパッドがなく、頬骨の上のサイドパッドで固定する仕組み。これは画期的だと。ボールが顔面を直撃する可能性もある野球には、これ以上ない構造だと思えたんです」
当時、エアフライがメインに打ち出していたのは、大人のランニング用だった。
「そのときはまだ、学童野球でも試合中のサングラス着用は認められていませんでしたが、子どもたちの目の健康を考えたら、有効なのは間違いない。これはエアフライの特許を持つジゴスペックさんにお願いして、野球、それもジュニアのカテゴリーについては、ウチの独占販売にしてもらえないでしょうか、と」
思いは通じ、野球用、ジュニアカテゴリーの商品はフィールドフォースの独占販売となり、前述通り、現在は定番商品となっている。
壮大な名の計画の行方は……
吉村の発言が起点となったという点では、さらに新しい動きの兆しもある。
フォロワー1万3000人超えのインスタグラム上で、吉村が「ものつくり大国日本再生計画」なる呼びかけを行ったのだ。随分、壮大である。
「フィールドフォースはこれまで、日本で企画・開発した商品を、主に中国の工場で作って、販売してきました。それが当たり前になってしまって、知らないうちに、何かバリアみたいなものが出来上がってしまっていたのかもしれない。外部からも、そんな風に思われているんじゃないかと」
しかし、これは本意ではない。これまで見てきたように、フィールドフォースの活動にNGはなく、むしろ、他者(他社)との関わりの中で生まれたり、発展、改良されてきた商品やサービスも多いのだ。
吉村が続ける。
「いろんな方と知り合う中で、あらためて日本の『ものづくり』のすごさを実感しているんです。この国には、ものすごいポテンシャルを持つ会社や工場、町工場も多い。そういうところとつながることができれば、いま以上のものを作り出すことが可能なんじゃないかと思うんです。だから、バリアはすべて取り払って、そうした“思い”のある方たちとつながっていけないものかと思ったんです」
すると、それを見たという数社から、早々にメッセージが届いたのだという。
「びっくりしました。まずは僕がいろんな会社に連絡して、足を運んで……なんてイメージしていたんですが、逆にこちらに、熱い思いを送ってくれた方がいたんです」
もちろん、一も二もなく、吉村からはこれに返信。助走期間もなく、計画が動き出してしまったのだった。
もちろん、受け身だけではない。
「当初の計画どおりに、こちらからもいろんなアイデアを持って、様々な方とのつながりを求めていきたいですね。こんな会社があってもいいですよね?」
また新しい「何か」が生まれようとしている。