あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。2022年日本一の倉知幸生監督(石川・中条ブルーインパルス)からスタートした『監督リレートーク』は、バトンを受けた辻正人監督(滋賀・多賀少年野球クラブ)の登場です。今やメディアからも引っ張りだこの“カリスマ指揮官”は、ともにレガシーを遺さんと、交流して10年以上になる全国区のジェントルな智将へ熱いメッセージを送ってくれました。
つじ・まさと●1968年、滋賀県生まれ。近大卒。多賀中の軟式野球部、近江高の硬式野球部で三塁手。20歳で多賀少年野球クラブを結成して現在も監督。チームは2000年代から全国大会の常連となり、16年に全国スポ少交流を初制覇。「卒スポ根」を標ぼう後、全日本学童を18年から2連覇。常識も覆す合理的な指導育成法を複数のメディアでも発信、「カリスマ監督」とも呼ばれる。夏の全国大会での采配は計18回で優勝3回、準優勝2回。JSPO公認軟式野球コーチ3
[滋賀・多賀少年野球クラブ]辻 正人
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岡 秀信
[愛知・北名古屋ドリームス]おか・ひでのぶ●1969年、愛知県生まれ。小3から九之坪ビクトリーズ(前身)で野球を始め、主に投手。千秋中の軟式野球部から東海屈指の進学校・滝高へ進み、高3夏は背番号1で県3回戦進出。社会人軟式・大森石油でもプレーした。長男が在籍した鴨田リバース(前身)で2000年から指導者に。前身の2チームを含む3チーム合併で06年誕生の北名古屋ドリームスでも指導を続け、09年に6年生チームを全国スポ少交流8強へ導く。組織改編した13年からトップチーム監督で、21年に全日本学童準Vなど夏の全国での采配は計6回
進化に終わりなし
その人といつ、どこでどう出会ってどういう話をしたのか。正直、私は答えられないことのほうが多いです。失礼やなとは思いますけど、仕方がないんです。何しろ、毎週末のように新しい出会いがありますので。
練習試合の対戦の申し込みから見学・視察の問い合わせ、面識ある指導者からの悩み相談まで、電話が鳴らない日がないほど。こういう状況が少なくとも10年以上は続いている上に、今では多賀少年野球クラブ(通称「多賀」)の選手が100人以上になっています。
ですから最近は、多賀町(滋賀県)まで足を運んでくれた人に、たいしたお構いもできないケースが増えています。自分のチームの人々を幸せにできない人間が、チーム外にするアドバイスなんて何の説得力もありません。最優先は多賀の選手であり、保護者。もちろん、外部から見学や視察がある旨は、チームの全員で共有するようにしているので、「自由にグラウンドに入って、何かあれば指導者にどんどん質問してください」と事前にお伝えするようにしています。
最も大事な野球の入り口、未就学児から低学年の入門者へのレクチャーだけは私が専任。あとの練習は、効率よく回って適切に成果を得られるようにコーチ陣を配して任せます。コーチは選手の父親ではなく、全員が多賀の理想とノウハウを理解しており、変化(進化)を止めない私についてきてくれています。
5大会連続15回目の出場となった昨夏の全日本学童は、能力を発揮し切れずに2回戦敗退。これを踏まえてまた、新たな取り組みをスタートしている
歴代でも随一かもしれない潜在能力を持て余したまま、2回戦で敗退した昨夏の全日本学童大会を受けて、方針をまた改めました。真夏の連戦となる大舞台でパフォーマンスを発揮し続けるための、「体力強化」が大テーマ。練習の時間を延ばすとか、やみくもに数を課すとか、そういう安直な取り組みではありません。
従来通りの時短練習(平日2回は自由参加、週末は午後から半日)で野球脳とスキルを高めつつ、同時に持久力も獲得していく。詳しい内容は『令和の根性主義』という見出しで記事にしてもらっている、会員制のWebサイト(フルカウント)があるので、ここでは割愛させてもらいます。
「選手主体」をより広く!
さて、この「リレートーク」で私を紹介してくれた、中条ブルーインパルスの倉知監督。出会いのことはさっぱり、わからん(笑)。というのは冗談で、当初は腹に一物あるなという監督でしたね。
こちらに遠征に来てくれたのが始まりで、過去の試合結果をたどってみると2016年の12月半ば。多賀が初めて全国優勝(スポ少交流)した年で、倉知監督もその夏にもうひとつの全国大会(全日本学童)に出ていて、そこそこ以上の自信を持っていたようです。それでよくあるパターンですが、新チームの腕試しと多賀の様子見、みたいな感じで来はったんやと思います。
初めて日本一となった2016年。地元・滋賀開催の全国スポーツ少年団交流大会を制してバンザイ&ガッツポーズ(写真上)。閉会式後は指導陣や保護者らの手で夏空に舞った(同下)
練習試合は結果として勝つことはあっても、勝利だけを求めてはいないし、より具体的で大事なテーマを全体や個々に与えて臨むのが大半です。倉知監督の中条には初対戦で負けて(3対7)、年が明けてからの再戦(2月)は私からお願いしてガチで勝負させてもらったのを覚えています(6対5で勝利)。
その再戦のころには、私は「卒・スポ根」を宣言して、とにかく選手にストレスを与えない、という指導へ傾倒していきました(結果、全日本学童で2連覇)。倉知監督はその後も、定期的に遠征に来てくれたので、私と多賀が激変していく過程もよく知っていると思います。
一方で、中条の倉知監督は下級生が頭打ちなど悩める指導者に。2018年の12月だったようですが、遠征してきたその夜から翌朝まで、アルコールを口にしながら話したのを覚えています。その場に一緒にいた、雑誌の元編集者は当時の音声データも保存しているそうで、酔いが進んだ私は倉知監督に対して「オレから何かを感じたんなら、お前も変われや!」などと、上から目線で繰り返したそうです。まったく記憶にありませんが。
倉知監督はその後、実際に変わっていきました。監督の自分が変わらんと、何も好転せえへん! そういう覚悟もあったんやと思います。怒声とか威嚇で選手をロボットのように操縦するのではなく、野球の本質を教え込みながら選手に主体性を持たせて任せていく。180度に近い自身の改革が、昨夏の全国制覇に結びついたんやと思いますし、楽しくて強くて考える野球で勝てる! ということを証明してくれたと思います。
中条・倉知監督は、高校では石川選抜で松井秀喜(元巨人ほか)らとプレーし、社会人軟式で全国準Vも経験。学童監督となり、怒声と経験則のゴリ押しで2年連続の全国出場を果たすも、以降は失速傾向で改心。選手主体の野球を追求して昨夏に全国制覇
その学んだことを、自分だけのものにしないでほしいですね。これからがんばっていこうとしている人、子供主体の野球へと変われる人や可能性を秘める人をよく見極めて、同じ考えの指導者を増やしていかなアカン。日本一になったことで、一つひとつの発言が重くなってくるはずで、自分の中では時代遅れの内容でもいいから、伝えるべき人には順を追って丁寧に伝えて、どんどん広めていってくれ! 目の前に彼がいたら、私はそう言いますね。
「一発屋」の中にも
私たちの滋賀県の学童野球は、怒声罵声が完全になくなりましたけど、他県の特に地方部は旧態依然の指導がまだ多数派のようです。改革には反対がつきものですけど、断行すればデメリットを遥かに超えるメリット、予期しないメリットもたくさん生まれてくる。2017年から大改革した私にとっては、倉知監督の成功もそのひとつかもしれません。
その年は飛び抜けてメンバーが充実していたり、エースと四番バッターが怪物クラスだったり。そうなると、指導者や保護者は全国出場や日本一などの野望を抱くもので、多賀に練習試合を申し込んでくることがよくあります。そういうチームを私は心の中で「一発屋」と揶揄していますが、得てして「ザ・王道」というようなデカい野球をします。大柄な選手が複数いて、打席では一様にフルスイング。守っては一様に強いボールを投げて、強肩の捕手は投げたがり。エースがまた輪をかけたようなスピードボールを、ひたすら全力で投げ込む。
昔から、多賀はそういう相手を得意にしています。野球の本質を理解し、状況や相手の出方に応じてやるべきことを選手が個々に理解していて精度も高いので、萎縮することがない。取るべきアウトを淡々と奪い、また粛々と1点を積み重ねていく。そして終わってみれば多賀が勝利しており、「こんなの野球やない!」とか「勝負では負けてへん!」などの捨てセリフを吐かれて、腹を立てて帰っていく。そういう指導者がひと昔前までは珍しくなく、「一発屋」ゆえに翌年以降に全国舞台で再会する、ということもほぼありませんでした。
自分の経験と方法が絶対で異論を全否定したり、吸収力のない指導者とは私も信頼は築けません。でも、少ない人数(数年前まで)でも王道野球を下していく多賀に、興味を持たれる指導者も中にはいました。倉知監督もその一人。そしてこの人もそう。北名古屋ドリームスの岡秀信監督です。
指導者のリーダーに!
岡監督は、私と1歳違いでほぼ同年代なので「岡さん」と呼んでいます。初対戦のことはよく覚えています。
2011年の秋、多賀の強化大会に初めて参加してくれました。岡さんが率いた当時の北名古屋は大型の新6年生チームで、絵にかいたようなデカい野球を展開。対する多賀(当時)は、多くても学年数人程度で、4年生のスタメンが当たり前。試合結果は忘れましたが、北名古屋に対しては全球スローボールで、速球を1球も投げさせなかったのを覚えています。
翌年の2012年の夏、北海道での全国大会(全国スポ少交流)で再会した岡さんとは、夜の懇親会で互いを深く理解し合えたと思います。その後は春の新4年生以下の多賀グリーンカップにも毎年、来てくれるように。
北名古屋ドリームス・岡監督がいち早く導入した「幼児野球」。母親もプレーできるティーボールで選手は野球や勝負の楽しさを知り、初歩的なルールも自ずと覚えていく
北名古屋の野球はその後も王道。でも、正反対に近かった多賀の野球を岡さんは否定するのではなく、走塁とか得点の仕方をよく見て、学ばれてはるなというのが当初からありました。そして今、「令和の根性野球」に取り組む多賀が、結果として「王道」に近い野球も展開するようになってきました(相手に応じて)。
とにかく、岡さんは頭の良い人で、敗戦を選手の責任にせずに、すぐに自分の行動に立ち返って考えられる指導者。毎年の全国予選は、最後に勝っても負けても必ずその日のうちに私に電話をくれます。
全国デビュー以降は選手が減るなどしたことから、組織の大改革を断行して(2013年)、岡さんがトップチームの監督に定着。「幼児(未就学児)が需要あるんですよ!」と、母子でプレーできるティーボールにも参加するなどして盛り返してきました。
その「幼児野球」は、私も参考にさせてもらいましたので多賀が最初ではない。岡さんの北名古屋が元祖。その幼児野球から始めた世代が6年生になってきていますから、今後はさらに安定した成績を残されていくと思います。
どこで誰に聞いても北名古屋を悪く言う人はいないし、岡さんは特に岐阜や名古屋方面の皆さんから信頼されているようです。チームはもう完全に全国区で、日本一もあと一歩(2021年全日本学童準V)。
これからは全国に門戸を広げて、年下の指導者の話をどんどん聞いてあげられるような存在になっていただけたらなと思っています。そういう器もある賢い人ですから。自分の失敗談とか成功体験とか、若い指導者にどんどん伝えていってほしいですね。だって、岡さんも私もどの道、先に死ぬんですよ、きっと。次の世代に、何かを残していきたいですよね。