監督リレートーク

【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪『監督リレートーク』は7人目です。今夏も全日本学童大会に出場した茨城・茎崎ファイターズの吉田祐司監督からバトンを受けたのは、昨夏の同大会4強の埼玉・熊谷グリーンタウンの斉藤晃監督。偶然にも、地元の後輩でもあるという千葉の気鋭の指揮官へ、激励も込めたメッセージを送ってくれました。 (取材・構成=大久保克哉) さいとう・あきら●1973年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部では一番・三塁で活躍。行田工高でラグビー部に入り、2年時にはウイングの11番で花園(全国大会)出場、3年時はスタンドオフ10番。卒業後は社会人のソフトボールでもプレー。甥っ子たちが入団した熊谷グリーンタウンで、コーチを経て2004年から監督に。翌05年秋の新人戦で関東4強入り。2016年から2年連続で全日本学童大会に出場し、ともに初戦を突破して2回戦で惜敗。5年ぶり3回目の同大会出場となった昨夏は、猛打で4強まで勝ち進んだ [埼玉・熊谷グリーンタウン] 斉藤 晃 ⇩ ⇩ 原口 守 [千葉・豊上ジュニアーズ] はらぐち・まもる●1976年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部、鴻巣高を通じて中堅手。50mを6秒フラットで走るスピードを買われ、社会人硬式クラブでも招待選手として3年間プレーするなど25歳まで現役を続けた。2011年に千葉県柏市に移住、長男が小3で入団した松葉ニューセラミックスで父親コーチ、低学年監督を経てトップチームの監督に。柏市選抜のコーチを2年間務めた後、2021年に豊上ジュニアーズの5年生チームのコーチに就任。翌22年秋の県新人戦を制して関東大会出場。同メンバーを率いて23年度から6年生チームの監督を務める 熊谷グリーンタウンは1980年創立なので、43年の歴史があります。私はそのだいたい半分の20年間、監督をさせてもらっていますが、試合でスクイズをしたのは片手で数えるほど。打者に対して「待て!」というサインも、基本的にありません。 要するに、初球のストライクから打って得点するという野球を掲げています。去年はまさにそういうチームで、夏の全国大会(ベスト4)では打力を発揮して、サヨナラ勝ちや2ケタ得点した試合もありました。みなさんから「すごいね」と打力を褒めていただきました。 昨年は6年生10人を率いて全日本学童大会に出場。5年ぶり3回目の夢舞台で派手に打ちまくり、4強まで進出した ただし、私からすれば去年のチームも、言葉は悪いですが、おデブさんとおチビさんの集まり。当時のキャプテンで西武Jr.でもプレーした志保田来夢(武蔵嵐山ボーイズ)など、普通にサク越えを打つ子もいましたけど、世代を代表するような特別にすごい怪物級かと言えば、私はそこまでとは思っていませんでした。 埼玉で勝つ意義 得点は打つことから。一方、チームづくりで私が最優先にしているのは、「最低限の守備」を全員に授けること。ある一定以上は確実に守れないと、戦いも結果も安定しない。ハッキリ言うと例年、打つほうはそんなにアテにしていないんです。打線はどんなに迫力があろうと、0対1で負けることがありますからね。 昨年は確かに、パワフルな打撃が目立ったと思います。でも私が一番に評価しているのは、予選の埼玉大会も全国大会もノーエラーだったこと。みんなよく守りましたね。常時100km以上を投げるようなスーパーエースがいない代わりに、誰がいつ登板してもストライクを確実に奪える投手陣でした。 また、ここ10年くらいは「名前勝ち」というのでしょうか、ウチと戦うというだけで相手が勝手にミスしたり、四死球を出したり。そういう試合が県大会でも増えたように思います。埼玉県では「全国大会出場」という実績の影響力が大きいんです。予選の県大会に出てくるのは半分以上が地域選抜チームですから、これを単独チームで勝ち抜いて優勝したとなると、周囲の見る目も一気に変わるのかもしれません。 練習試合に臨む選手たちへ。「意味のない声はいらないから、互いに指示を出せるようになろう」 昨年で全国出場は3回目でしたが、これまでの教え子で大学でもプレーしたのは5人程度。大半の子は高校野球で完結しています。つまり、「特別にすご選手」というのは昔からいないんです。 だからこそ、指導育成で何より追求しているのが「人間性の成長」。きれいごとだと思われてしまいそうですけど、子どもたちにはいつも「野球のうまいヘタは関係ないよ!」と言っています。 人間性の成長は具体的には、会話ができる子になるとか、野球も含めて反応が素早い子になる、とか。そのために、試合中は互いに指示を出し合うことを選手たちに求めています。学習を伴う経験を重ねればこそ、状況や仲間の立場や気持ちも理解できるようになって、適切な指示やアドバイスにつながっていくと考えています。逆に「オ~イ」とか「バッチコーイ」とか、意味をあまり持たない単語をどんなに連呼したところで、そういうものが身に着くことはないと思います。 深まる絆の理由 さて、私を紹介してくれた同級生、茎崎ファイターズの吉田監督について。彼は覚えていないと思いますが、私は15年ほど前の出会いを忘れるはずがありません。何しろ、衝撃的でしたから。 親交のある吉川ウイングス(埼玉)が主催するローカル大会中のことでした。ウチも初めてエントリーさせてもらったときに、スゲーなこのチーム! というところがあったんです。選手はみんな丸刈り(当時)で、左打者が多くてねちっこい。そして先制点は必ずスクイズで確実に奪う……。初めて見たこともあって、圧倒されていました。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...

【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。「監督リレートーク」は6人目となりました。全日本学童大会に2年ぶり10回目の出場を決めた茨城・茎崎ファイターズの吉田祐司監督。厳しさも隠さぬ一本気な満50歳の名将は、埼玉で老舗チームを長らく率いる同級生へ、己にも通じる熱いメッセージを送ってくれました。 (取材・構成=大久保克哉) よしだ・ゆうじ●1973年、茨城県生まれ。茎崎ファイターズで野球を始め、つくば市立高崎中で軟式野球部。竜ヶ崎一高で2年夏に甲子園出場(2回戦)、主将を務めた3年夏は四番・一塁で甲子園3回戦進出、松井秀喜を擁する石川・星稜高に3対4で惜敗。福井工大で大学選手権4回、神宮大会2回出場。96年に茎崎ファイターズのコーチとなり、99年から監督に。2001年初出場の全日本学童は今夏で10回目に。19年に準優勝、3位が3回。2015年全国スポ少交流2回戦進出。卒団生の次男・慶剛(千葉・専大松戸高3年)が今春の甲子園で本塁打も放っている [茨城・茎崎ファイターズ] 吉田祐司 ⇩ ⇩ 斉藤 晃 [埼玉・熊谷グリーンタウン] さいとう・あきら●1973年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部では一番・三塁で活躍。行田工高でラグビー部に入り、2年時にはウイングの11番で花園(全国大会)出場、3年時はスタンドオフ10番。卒業後は社会人のソフトボールでもプレー。甥っ子たちが入団した熊谷グリーンタウンで、コーチを経て2004年から監督に。翌05年秋の新人戦で関東4強入り。2016年から2年連続で全日本学童大会に出場し、ともに初戦を突破して2回戦で惜敗。5年ぶり3回目の同大会出場となった昨夏は、猛打で4強まで勝ち進んだ 悔し涙なんか、誰でも流せる。どうせ泣くんなら、うれし涙を流せ! ウチの子どもたちにはよくそういうことを言っています。自分自身も、茎崎ファイターズというチームで監督をさせてもらっている以上は、負けられない! 正直、常にそれがあります。毎年の選手の頭数とか能力で、そこが変わることは決してありません。 全員が同じ志の組織 目標はあくまでも全国大会――。選手も保護者もそれを知って、求めて入ってきてくれています。だから、今年は6年生が6人だけですけど、そういう言い訳は絶対にしてきませんでした。ただ、今年のチームはホントに力がなかったので、県大会で優勝(全日本学童出場決定)したときには、今までにないくらいのうれしさがありましたね。 歴代のOBや家族らを含む大応援の中で、今夏の全日本学童出場(県優勝)を決めて、胴上げされた(6月24日、水戸市) そのあたりは3人のOBコーチ、佐々木(亘)と茂呂(修児)と小林(拓真)もしっかりとわかってくれていて、危機感も喜びも同様だったと思います。監督がどうというより、組織力で勝たせてもらったということですね。 私をこのコーナーに紹介してくれた天井クン(正之監督)の、常磐軟式野球スポーツ少年団(福島)に実績はぜんぜん及びませんけど、OBの指導陣でカチッと団結している、という点では茎崎も同じだと思っています。 天井クンと出会ったのは20年以上前。お互いに大学野球までプレーして、古巣の学童チームでコーチになっていたころ。正直、堅いなという第一印象でした。常磐といえば当時から学童野球を引っ張る存在で、全国は出て当たり前でそこでいかに勝つかを考えられているようなチームでしたから。天井クンは学年は1つ下ですけど、逆に同年代だからこそ甘さを見せないというか、絶対に負けたくない、という感じがあったんじゃないかなと思います。 それでもチーム同士の交流が定期的にあって、お互いに監督になってからは行き来のタイミングで酒席もともにするように。そういう中で徐々にお互いの心が開いて、気付いたら何でも話せる関係になっていましたね。 動じぬ男の一度きりの弱音 ウチらは常磐を目標にずっとやってきましたし、常磐との練習試合がひとつのバロメーターになっているんです。勝った負けたじゃなくて、今の自分たちのチームの立ち位置だとか、前回からの成長具合だとかを判断することができる。今でももちろん、目標とするチームです。 天井クンがすごいのは、動じないところ。ほぼ同時期に、若くして監督になりましたけど、天井クンの常磐はすでに名門中の名門。自分が監督になった当時の茎崎は、まだ全日本学童にも出ていませんでしたから、プレッシャーも雑音も比較にならなかったと思うんです。でも天井クンは、野球に関しては当初から少しもブレていない。誰にでもできることじゃないですよね。 1999年の監督就任時から、同級生の佐々木コーチ(写真上右)と後輩の茂呂コーチ(同左)と三人四脚。「優勝したらまず佐々木コーチと握手がお決まり」(吉田監督=写真下) 今でも忘れられないのは、2011年の東日本大震災の後のこと。福島県はいわき市も含めて沿岸部も津波で大きな被害を受けて、街のほうも壊滅的で他の県に引っ越してしまう子どもたちもいたり。そういう中で天井クン(当時は家庭の事情でチーム顧問)から電話が掛かってきたんです。 「もしかしたらもう、野球ができないかもしれない…」 後にも先にも聞いたことがない、弱々しい声と口調。それまでの強気な天井クンじゃなかったんです。正直、自分は話を聞くだけで、何も言ってあげることができなかったですね。「頑張れよ!」とか言うのは簡単ですけど、そういう他人事みたいな声掛けは逆にできなかったんです。 でもその分、何とかして震災前までのような感じでやれないかな、と。常磐も天井クンも、こんなところで終わらずに復活してもらわなくちゃいけない、と思っていましたからね。福島では野球ができる状況じゃなかった期間には、常磐のみなさんは茨城県内で練習をされることもあったので、自分たちもできるだけそこに顔を出したり。...
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【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。「監督リレートーク」は5人目の登場です。全日本学童大会の最多出場記録を今夏で23回へと更新を決めたばかりの福島・常磐軟式野球スポーツ少年団の天井正之監督。年齢も経歴も監督キャリアも類似している茨城県の同志へ「どちらが先に日本一になりますか!? 新年会も復活させましょう!」と、親愛も込めたメッセージを送ってくれました。 (取材&構成/大久保克哉) あまい・まさゆき●1974年、福島県生まれ。常磐軟式野球スポーツで野球を始め、6年時に四番・捕手で全国スポ少年交流に2回戦まで進出。湯本一中で四番・投手、湯本高でも看板打者で3年夏に県準優勝。中大まで硬式野球を続け、卒業後に地元・いわき市で消防職員に。同時に古巣・常磐でコーチとなり、2000年から監督を務めて02年と05年に全日本学童準優勝、07年は全国スポ少交流で優勝。09年から顧問、15年に指揮官に復帰。監督として全国2大大会通算14回出場、優勝1回、準優勝2回、3位が1回。今夏の全日本学童出場(15回目)も決めている [福島・常磐軟式野球スポーツ少年団] 天井正之 ⇩ ⇩ 吉田祐司 [茨城・茎崎ファイターズ] よしだ・ゆうじ●1973年、茨城県生まれ。茎崎ファイターズで野球を始め、つくば市立高崎中で軟式野球部。竜ヶ崎一高で2年夏に甲子園出場(2回戦)、主将を務めた3年夏は四番・三塁で甲子園3回戦進出、松井秀喜を擁する石川・星稜高に3対4で惜敗。福井工大で大学選手権4回、神宮大会2回出場。96年に茎崎ファイターズのコーチとなり、99年から監督に。2001年初出場の全日本学童は通算9回出場、19年に準優勝、3位が3回。2015年全国スポ少交流2回戦進出。卒団生の次男・慶剛(千葉・専大松戸高3年)が今春の甲子園で本塁打も放っている おかげさまで、今年の夏の全日本学童大会出場を決めることができました(2年連続23回目)。今年に限ったことではありませんが、伝統と組織力の勝利だと思っています。 「負けたくねぇ」執念 地区予選(磐南)の決勝では、同じいわき市の小名浜(少年野球教室)さんに勝たせていただきましたけど、1点差(2対1)でしたし、小名浜に勝たねぇと全国に出らんねぇ、というのも毎年のこと。福島大会の決勝でまた対戦する組み合わせでしたが、今年は違う相手との決勝でした(小名浜は準決勝で敗退)。 昨夏の全日本学童1回戦は、大会初導入のナイトゲームに。大会前のコロナ感染などでベストメンバーで戦えずに敗退した 私が常磐でプレーしていたときにはもう、小名浜さんを強く意識していましたね。今では全国出場回数はウチのほうが多いですけど、小名浜さんのほうが歴史が古くて全国出場も先。常磐の全国初出場は私が6年生のとき(1986年全国スポ少交流)で、今でも常磐を支え続けてくれている大平清団長が、ばりばりの監督(初代)でした。このあたりからライバル関係も強くなってきたんだと思います。 そして常磐が何年も続けて全国出場している時期に、小名浜の監督を引き受けられた(1994年)のが小和口さん(有久監督)。私をこのコーナーに紹介してくれた監督ですが、就任当初はプレッシャーもあったり、何かとたいへんだったと思います。 小和口さんの勝負に対するどん欲さは、すごいものがある。どっから、あんだけ湧いてくんの? というくらい。聞いた話ですけど、平日の朝早くから練習することもあるそうです。これまでに数えきれないほど、公式戦で戦ってきてますけど、絶対に負けたくねぇという執念をいつも感じますね。そこは私も同じですけど。 創立40年目となる今年も、平日のナイター練習(下)を経て2年連続23回目の全日本学童出場を決めている 小和口さんの記事にもありましたけど、今年はウチのほうが行けっかな(相手より上の手応えあり)というときに、意外と負けることがある。現状維持よりも、必死に追い抜こうとするほうが強くなるんだと思います。安心しちゃダメだということですよね。小和口さんとの対戦の中で、学ばせてもらったことのひとつです。 大記録更新中の背景 常磐の野球は、確かに緻密です。試合中の監督は、決断の連続です。ただ、緻密な野球はそれだけの時間と手間もかけることで成り立っていますし、どんな作戦も私の独断や根拠のない思いつきではないんです。試合中の瞬時の判断は私(監督)になりますけど、一緒のベンチにいる大平団長やコーチ陣とは常に情報を共有しながら、意見も交わしています。 常磐を創成期から支える大平清団長(初代監督=写真左)。現在は職場で要職にある天井監督に代わって、平日練習の前半の指導を一手に担っている 100%ではないけど、常磐の指導陣は大半がOBで私もその一人。要するに、緻密な野球をみんな経験してきているんです。だから、いつ何をどうすればいいのか、ということをいちいち確認しなくても、最初から理解と共有ができている。常磐の伝統と組織力も、そこがベースになっているのだと自負しています。 ですから、全国でどこがライバルだとか、小名浜さんに負けたくないとか、そういう意識は実はそれほどでもないんです。何を措いても、常磐は強くあらねばいけない。『常に強くあれ!』というのが常磐球児のモットーであり、常磐を強くしたいがために、練習でも大会でもOBたちがどんどん集結してくれる。それぞれ社会に出て仕事をしながらでも、時間をつくって来てくれるんです。 全日本学童大会最多出場の理由は何ですか? こういう質問を受けることがありますが、以上が答えです。それ以外も以上もありません。礎を築かれた大平団長が、50歳で自ら初代監督を退かれて私にバトンタッチされました。私にはまだ果たすべきことも残されているので頑張りますが、いずれは後進のOBに道を譲ることになる。つまり、常磐の繁栄は監督一代限りではなくて、100年経ってもきっと続いているのです。これがOBたちの誇りでもあります。 小名浜の小和口さんと、福島の学童野球を引っ張っていきたい。こういう気持ちはずっと前からあって、現にそうしてきているつもりですが、あきらめてしまう指導者が多いなというのが実感です。遠慮というのか、交流の輪などにも声を掛けてもらえなかったり。敷居をそんなに高くしているつもりもありませんので、もっとどんどん食い込んできてほしいですね。 若き日からの同志...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...

【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。『監督リレートーク』は4人目の登場です。全国スポーツ少年団軟式野球交流大会で3度V。満75歳の小名浜少年野球教室・小和口有久監督は、同じ福島県いわき市の強烈なライバルに敬意と謝意を表しつつ、「ともに福島を盛り上げましょう! アンタが中心にいねかったら、みんな育っていかねぇから」と、温かみのある岩城弁でメッセージを送ってくれました。 こわぐち・ありひさ●1948年、福島県生まれ。小名浜一中で軟式野球部、勿来工高で硬式野球部。社会人・小名浜クラブまで遊撃手としてプレーした。引退後は社会人・堺化学工業クラブの監督を経て、94年に小名浜少年野球教室の指揮官に就任。29年の学童指導歴の中で、全日本学童は9回出場(8強3回)、全国スポ少交流は昨夏も含めて8回出場して95年からの2連覇と2004年の計3回の優勝を誇る。教え子からは小松聖(オリックススカウト)、西巻賢二(DeNA)、古長拓(元オリックス)と3人のプロ選手が生まれている [福島・小名浜少年野球教室] 小和口有久 ⇩ ⇩ 天井正之 [福島・常磐軟式野球スポーツ少年団] あまい・まさゆき●1974年、福島県生まれ。常磐軟式野球スポーツ少年団で野球を始め、6年時に四番・捕手で全国スポ少年交流に2回戦まで進出。湯本一中で四番・投手、湯本高でも看板打者で3年夏に県準優勝。中大まで硬式野球を続け、卒業後に地元・いわき市で消防職員に。同時に古巣・常磐でコーチとなり、2000年から監督を務めて02年と05年に全日本学童準優勝、07年は全国スポ少交流で優勝。09年から顧問、15年に指揮官に復帰。監督として全国2大大会通算14回出場、優勝1回、準優勝2回、3位が1回 私も始まりは父親監督です。社会人まで野球をやっていたこともあって、小名浜少年野球教室の鈴木良成代表から監督をずっと依頼されていたの。それを初めて引き受けたのが、自分の息子が6年生のとき(1994年)。 でも最初は弱かったねぇ。いわき市の大会で常磐(軟式野球スポーツ少年団※全日本学童の最多出場記録22回)さんに0対18くらいのボロ負け。その次は0対9、その次が0対7という感じで、少しずつ差を縮めていって。全日本学童予選の県大会の準決勝で、また常磐さんと当たったんです。このときには延長まで持っていって、1対2で負けたのかな。それで、あれ、オレも(監督)できんのかなって。 その次の年(95年)には富山県であったスポ少の全国大会(全国スポ少交流)に行って優勝(翌年に連覇)。それでああ、オレもできんだなっていう感じで、それからずっとやってきてます。 過去3度制している全国スポ少交流大会に2022年、10年ぶり9回目の出場。準々決勝で敗退も、逆転に次ぐ逆転の大激戦を演じた こんなに30年近くも続いて、こういう今があるなんて、想像でぎなかったよね。おかげさまで大きな病気もせず、足が少し悪かったのも手術して治って。体が丈夫だったから続いてきたのかもわかんねぇけど、本当に大変なときもありましたよ。もう年中、野球やってっから、家内に怒られたりしてね。 土日祝日は野球。平日も朝8時に会社に行って16時半まで働いて、帰ってきたら夜の8時半まで子供たちと練習して、それからまた会社に行って…。そういう生活を20何年もやってきたから。そういうサイクルになってたから、ここ(活動拠点の矢田川グラウンド)に来ないと逆に気持ち悪いっていうのか。ただ、家内は大変だよぉ。だから、家族同士で理解もねかったら、こんなに長くはできないよね、絶対。 OBの中学生に激怒 それとね、やっぱり子供がね、子供が好きだからだね、うん。大好きなんで。でねかったら、こんなに続かないよね。この前も、中学生になった教え子たちに本当に怒ったんです。 すぐ隣の球場で中学軟式野球部が試合をするらしくて、一方のチームが「(練習)場所を貸してくれませんか」と来たんですよ。ところが、もう一方のチームはぜんぜん言ってこないで勝手に始めて。だから私は頭にきてよ、怒ったんです。 「オメェたちさ、オレに『借りる』と言ったが? 一言あってもいいんじゃねぇが? そんなんだら野球なんてやめちまえ! そんな礼儀もわかんねぇだら野球どころでねぇから」って。「オメェたちに教える側も悪いんだ!」って言ったらさ、その野球部の監督が私の教え子(小名浜OB)で、選手も2年前まで小名浜でやっていた子たちが中心。「じゃあ、オメェたちを教えてきたオレが一番悪いんだな!」って(笑)。 今では笑い話ですけどね、あんときは本当に怒ったね、頭から。子供が可愛くねがったら何も関与しないし、あんなに怒んねぇなと思いますよ。 福島では「打撃の小名浜」とも呼ばれる。遊撃手として社会人までプレーした小和口監督の指導は、シンプルで小学生に理解・習得されやすい(写真は2012年) このコーナーで私を紹介してくれた北名古屋ドリームス(愛知)の岡秀信監督とは、不思議と馬が合うというのかなぁ。出会ったときから、お喋りがしやすい人でしたね。 震災翌年に感激の再会 スポ少の全国大会が北海道の札幌で固定開催(2006年から8年間)されていたときで、2009年の開催前日に新千歳空港で会ったのが初めて。そんときの岡監督がすっごく気さくだったの。私は初対面の人とはそんなにお喋りできねぇんだけど、岡監督は何だかお喋りしやすくて、大会中もずっと仲良くさせてもらって。その中で、岡監督は進退を悩んでいる、という話も聞きました。この大会はウチは3位で、北名古屋とやったのが2日目の準々決勝。結果は7対4だったかな、ウチが勝たせてもらって。 あんときの北名古屋は、和やかにやってたよね。ベンチもそんなにガツガツといくような雰囲気もねかったし、負けてもサッパリしてたよね。でも子供たちは野球をしっかりと教えてもらってるなという。何ていうのかな、岡監督の人柄でやってるみたいな感じで、本当に優しくてね、子供らにも。それで「こういう野球してったら、また全国来れっから!」と試合後に話したんです。 それで3年後(2012年の全国スポ少交流)に、また札幌で再会。私もうれしかったねぇ。また出て来てっからさ、北名古屋がね。岡監督に感謝の気持ちもたくさんあったからね。 北名古屋・岡監督と再会した2012年の全国スポ少交流は4強まで進出した...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...

【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。滋賀・多賀少年野球クラブの辻正人監督からバトンを受けたジェントルな智将・岡秀信監督(愛知・北名古屋ドリームス)には、過去の全国大会で転機となる一語を与えてくれた名将が東北にいるそうです。全国舞台での再会を誓いつつ、「言い訳ばかりの昨今の指導者たちに喝を入れてほしい!」と熱いメッセージが送られました。 おか・ひでのぶ●1969年、愛知県生まれ。小3から九之坪ビクトリーズ(前身)で野球を始め、主に投手。千秋中の軟式野球部から東海屈指の進学校・滝高へ進み、高3夏は背番号1で県3回戦進出。社会人軟式・大森石油でもプレーした。長男が在籍した鴨田リバース(前身)で2000年から指導者に。前身の2チームを含む3チーム合併で06年誕生の北名古屋ドリームスでも指導を続け、09年に6年生チームを全国スポ少交流8強へ導く。組織改編した13年からトップチーム監督で、21年に全日本学童準Vなど夏の全国での采配は計6回 [愛知・北名古屋ドリームス] 岡 秀信 ⇩ ⇩ 小和口有久 [福島・小名浜少年野球教室] こわぐち・ありひさ●1948年、福島県生まれ。小名浜一中で軟式野球部、勿来工高で硬式野球部。社会人・小名浜クラブまで遊撃手としてプレーした。引退後は社会人・堺化学工業クラブの監督を経て、94年に小名浜少年野球教室の指揮官に就任。29年の学童指導歴の中で、全日本学童は9回出場(8強3回)、全国スポ少交流は昨夏も含めて8回出場して95年からの2連覇と2004年の計3回の優勝を誇る。教え子からは小松聖(オリックススカウト)、西巻賢二(DeNA)、古長拓(元オリックス)と3人のプロ選手が生まれている 模倣より打破の思考 皆様、初めまして。多賀少年野球クラブ(滋賀)の辻監督が言うところの「一発屋」の一人が私です(笑)。 辻さんとの出会いは2011年の秋でした。今のように情報があふれていませんでしたので「多賀が強い」という以上は何も知らず、共通の知人を介して新チームの強化大会に参加させてもらったのが始まりです。 初めて見た多賀というチームは、小さい子ばかりでバットを引きずっているような感じ。ところが、野球を始めてみたら抜群に巧い。投手はインコースに緩いボールばかり投げてきて、ウチはチャンスはつくるけど点がなかなか入らない。けん制とかピックオフでランナーが刺されたり、打球も良い当たりなのに捕られたり。多賀は逆にチャンスは少ないのに確実に得点する感じで、スコアは確か2対3でウチが負けました。 北名古屋ドリームスは4大会連続4回目の出場となった2021年の全日本学童大会で準優勝。左から岡監督、池田号コーチ、杉本憲彦コーチ 多賀のような野球を目の当たりにしたのは初めてで、「えっ!?」というのが何度も。ただ私の場合は腹が立つより、興味がわきましたね。それからは、何度も遠征して試合をさせてもらっています。当初は勝敗も采配も度返しで、私は多賀の選手たちの動きを追うと同時に辻さんのベンチからの指示に耳を傾けていました。 ただし、方法論を辻さんから直接に聞いたことは一度もありません。偉大なカリスマだからではなく、私は人に教えを乞うタイプではないんです。カッコよく言えば「見て盗む」タイプ。実際、多賀の野球をコピーしているようなチームも少なくありませんよね。でも、マネをするという発想は私にはなくて、どうすれば、ああいう多賀のややこしい野球に勝てるだろうと、ひたすらに考えていく。それには、まずは敵をよく知る、よく見ることから始まる、というわけです。 「投資」から本気と活気 辻さんとは初対面の翌年、2012年に札幌で開催されたスポーツ少年団の全国大会で再会して、より親しくなれました。監督の親睦会もあって、優勝することになるJBC玉城(三重)の高口(一彦)さんとか、東16丁目フリッパーズ(北海道)の笹谷(武志)さんとか、全国区の方々とも知り合うことができました。 そして翌2013年度から、私は北名古屋ドリームスのトップチーム(5・6年生)の監督に定着。それまでは私を含む3人の指導者が順番で、4年生チームから繰り上がって3年目に監督になるシステムでした。でも、この3年サイクルでは、せっかく始まった全国区のチームとの交流も途切れてしまうし、全国舞台までの私の経験も還元しにくい。これはチームに不利益だろうと考えて、代表に直談判したのでした。 ところが、改革に反対はつきものですよね。体制刷新で去られる指導者も選手も複数いて、「揉めごとが多い」とか「人が減っている」などの噂も広まり…。一時は選手が全学年で15人くらいに。なぜ、選手が集まらないのか。残ったスタッフたちとも話し合い、こういう結論にいたりました。 『チームに魅力がないから!』 魅力とは何か、魅力を得るにはどうすればいいのか――。熟考の末に私が出した答えが『投資』でした。そして打撃用マシンを4台購入。すべて自腹でしたが、これで完全にスイッチが入りましたし、本気でないと人には伝わらないのだ、ということを私は悟りました。 「打てるようになると野球が楽しくなる」(岡監督)。スローガンに本気で取り組んで組織は徐々に大きく 2つめの投資は人、指導者です。中でも大ヒットが、私の長男・将志(現在は中学部の監督)をジュニアチーム(4年生以下)の監督にしたことでした。当時の長男は大学野球を引退したばかりで時間もあり、若さも魅力だったのでしょう、子供が増え始めたのです。 そして人が人を呼ぶんですね。環境を整えた上で『打って、打って、打ちまくれ!』というスローガンを本気で打ち出していくと、一気に組織が大きくなりました。またそこで満足せず、新たにスタートしたのが『幼児野球』。今はトップの池田号コーチが、園児だった下の息子を練習に加えたのが始まりです。 就学前の幼児の需要。これが意外とあるものなんです。私は実際に、平日夕方に近所のスポーツ教室なども見学して確かめました。教えるのも簡単ではありませんが、効果は確実にあります。ウチが2021年の全日本学童で準優勝したときのメンバーのうち、6人が『幼児野球』の経験者で、三番・遊撃の池田世宇(現・中等部2年)が池田コーチの次男、つまりきっかけとなった子でした。 2年生以下のキッズは、母親も参加のティーボールで野球の楽しさや初歩を覚えていく...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...

【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。2022年日本一の倉知幸生監督(石川・中条ブルーインパルス)からスタートした『監督リレートーク』は、バトンを受けた辻正人監督(滋賀・多賀少年野球クラブ)の登場です。今やメディアからも引っ張りだこの“カリスマ指揮官”は、ともにレガシーを遺さんと、交流して10年以上になる全国区のジェントルな智将へ熱いメッセージを送ってくれました。 つじ・まさと●1968年、滋賀県生まれ。近大卒。多賀中の軟式野球部、近江高の硬式野球部で三塁手。20歳で多賀少年野球クラブを結成して現在も監督。チームは2000年代から全国大会の常連となり、16年に全国スポ少交流を初制覇。「卒スポ根」を標ぼう後、全日本学童を18年から2連覇。常識も覆す合理的な指導育成法を複数のメディアでも発信、「カリスマ監督」とも呼ばれる。夏の全国大会での采配は計18回で優勝3回、準優勝2回。JSPO公認軟式野球コーチ3 [滋賀・多賀少年野球クラブ] 辻 正人 ⇩ ⇩ 岡 秀信 [愛知・北名古屋ドリームス] おか・ひでのぶ●1969年、愛知県生まれ。小3から九之坪ビクトリーズ(前身)で野球を始め、主に投手。千秋中の軟式野球部から東海屈指の進学校・滝高へ進み、高3夏は背番号1で県3回戦進出。社会人軟式・大森石油でもプレーした。長男が在籍した鴨田リバース(前身)で2000年から指導者に。前身の2チームを含む3チーム合併で06年誕生の北名古屋ドリームスでも指導を続け、09年に6年生チームを全国スポ少交流8強へ導く。組織改編した13年からトップチーム監督で、21年に全日本学童準Vなど夏の全国での采配は計6回 進化に終わりなし その人といつ、どこでどう出会ってどういう話をしたのか。正直、私は答えられないことのほうが多いです。失礼やなとは思いますけど、仕方がないんです。何しろ、毎週末のように新しい出会いがありますので。 練習試合の対戦の申し込みから見学・視察の問い合わせ、面識ある指導者からの悩み相談まで、電話が鳴らない日がないほど。こういう状況が少なくとも10年以上は続いている上に、今では多賀少年野球クラブ(通称「多賀」)の選手が100人以上になっています。 ですから最近は、多賀町(滋賀県)まで足を運んでくれた人に、たいしたお構いもできないケースが増えています。自分のチームの人々を幸せにできない人間が、チーム外にするアドバイスなんて何の説得力もありません。最優先は多賀の選手であり、保護者。もちろん、外部から見学や視察がある旨は、チームの全員で共有するようにしているので、「自由にグラウンドに入って、何かあれば指導者にどんどん質問してください」と事前にお伝えするようにしています。 最も大事な野球の入り口、未就学児から低学年の入門者へのレクチャーだけは私が専任。あとの練習は、効率よく回って適切に成果を得られるようにコーチ陣を配して任せます。コーチは選手の父親ではなく、全員が多賀の理想とノウハウを理解しており、変化(進化)を止めない私についてきてくれています。 5大会連続15回目の出場となった昨夏の全日本学童は、能力を発揮し切れずに2回戦敗退。これを踏まえてまた、新たな取り組みをスタートしている 歴代でも随一かもしれない潜在能力を持て余したまま、2回戦で敗退した昨夏の全日本学童大会を受けて、方針をまた改めました。真夏の連戦となる大舞台でパフォーマンスを発揮し続けるための、「体力強化」が大テーマ。練習の時間を延ばすとか、やみくもに数を課すとか、そういう安直な取り組みではありません。 従来通りの時短練習(平日2回は自由参加、週末は午後から半日)で野球脳とスキルを高めつつ、同時に持久力も獲得していく。詳しい内容は『令和の根性主義』という見出しで記事にしてもらっている、会員制のWebサイト(フルカウント)があるので、ここでは割愛させてもらいます。 「選手主体」をより広く! さて、この「リレートーク」で私を紹介してくれた、中条ブルーインパルスの倉知監督。出会いのことはさっぱり、わからん(笑)。というのは冗談で、当初は腹に一物あるなという監督でしたね。 こちらに遠征に来てくれたのが始まりで、過去の試合結果をたどってみると2016年の12月半ば。多賀が初めて全国優勝(スポ少交流)した年で、倉知監督もその夏にもうひとつの全国大会(全日本学童)に出ていて、そこそこ以上の自信を持っていたようです。それでよくあるパターンですが、新チームの腕試しと多賀の様子見、みたいな感じで来はったんやと思います。 初めて日本一となった2016年。地元・滋賀開催の全国スポーツ少年団交流大会を制してバンザイ&ガッツポーズ(写真上)。閉会式後は指導陣や保護者らの手で夏空に舞った(同下) 練習試合は結果として勝つことはあっても、勝利だけを求めてはいないし、より具体的で大事なテーマを全体や個々に与えて臨むのが大半です。倉知監督の中条には初対戦で負けて(3対7)、年が明けてからの再戦(2月)は私からお願いしてガチで勝負させてもらったのを覚えています(6対5で勝利)。 その再戦のころには、私は「卒・スポ根」を宣言して、とにかく選手にストレスを与えない、という指導へ傾倒していきました(結果、全日本学童で2連覇)。倉知監督はその後も、定期的に遠征に来てくれたので、私と多賀が激変していく過程もよく知っていると思います。 一方で、中条の倉知監督は下級生が頭打ちなど悩める指導者に。2018年の12月だったようですが、遠征してきたその夜から翌朝まで、アルコールを口にしながら話したのを覚えています。その場に一緒にいた、雑誌の元編集者は当時の音声データも保存しているそうで、酔いが進んだ私は倉知監督に対して「オレから何かを感じたんなら、お前も変われや!」などと、上から目線で繰り返したそうです。まったく記憶にありませんが。 倉知監督はその後、実際に変わっていきました。監督の自分が変わらんと、何も好転せえへん! そういう覚悟もあったんやと思います。怒声とか威嚇で選手をロボットのように操縦するのではなく、野球の本質を教え込みながら選手に主体性を持たせて任せていく。180度に近い自身の改革が、昨夏の全国制覇に結びついたんやと思いますし、楽しくて強くて考える野球で勝てる! ということを証明してくれたと思います。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...

【学童監督リレートーク】 “あるべき今と未...
あるべき今と、これからの学童野球界――。こういう視点も持ちながらフィールドに立つ背番号30番が、リスペクトや信頼を込めて他チームの30番へとメッセージを送ります。題して『学童野球監督リレートーク』。今と未来を明るく照らす“輪”は、2022年夏に日本一に輝いた中条ブルーインパルス(石川)の倉知幸生監督から始まります。 くらち・こうせい●1972年生まれ、石川県生まれ。津幡中の軟式野球部で一番・三塁。津幡高で一番・遊撃、県選抜で二塁手に。社会人軟式の佐川急便北陸支社で5年間プレーして全国準Vも経験。引退後の2008年、小4の長男と中条ブルーインパルスに入り、コーチを経て10年から監督に。16年、17年に続く3度目の全日本学童出場となった22年に初優勝。次男はNOL/石川で、三男は遊学館高でプレー、昨夏Vに貢献した服部成は甥にあたる 倉知幸生[石川・中条ブルーインパルス] ↓ 辻 正人[滋賀・多賀少年野球クラブ] つじ・まさと●1968年、滋賀県生まれ。近大卒。多賀中の軟式野球部、近江高の硬式野球部で三塁手。20歳で多賀少年野球クラブを結成して現在も監督。チームは2000年代から全国大会の常連となり、16年に全国スポ少交流を初制覇。「卒スポ根」を標ぼう後、全日本学童を18年から2連覇。常識も覆す合理的な指導育成法を複数のメディアでも発信、「カリスマ監督」とも呼ばれる。JSPO公認軟式野球コーチ3 3度目の正直で日本一に 昨年夏の全国制覇(全日本学童大会)は、子供たちのおかげです。彼らがホントによく頑張ってくれました。僕自身は特にそんなに何もせんと、でも過去の教訓は生きたと思います。 監督として全国大会は3度目で、過去2回は同じ失敗を繰り返していました。チームを何とか勝たせてやらんな、と自分がハイテンションになり過ぎて、大きい声も出てしまうし、試合中も怒り口調で選手を問い詰めたり。そのピリピリ感のようなものが子供たちに伝染して、いつもの力を出し切れんと終わってしまいました(2016年は2回戦、翌17年は1回戦敗退)。 2022年8月14日、全日本学童大会決勝で長曽根ストロングス(大阪)を3対0で破り、初優勝。V戦士たちの手で駒澤オリンピック公園硬式野球場の夏空に舞った 3度目の正直を期した昨年は、大会への入り方や試合への入り方に気を配りました。まずは指導陣も選手も、全員が落ち着いてバタバタせんように。試合中の僕はガマン、ガマンで子供たちがいかに楽しんでプレーできるかを考えて、声掛けもしていました。野球は失敗するスポーツ、プレーするのは小学生ですからね。結果、キャプテンの服部成(3回戦で完全試合も達成)をはじめ、子供たちは全国舞台の中でさらに成長してくれたと思います。 ノーサイン野球とは 中条ブルーインパルスで実践する「ノーサイン野球」は、選手同士で状況を読みながらサインを出し合い、試合を組み立てていくものです。高学年の公式戦でこれを実現するために、選手は下級生のうちから実戦を経験しながら、野球の本質を学んでいきます。 練習試合ではワンプレーや一打席ごとに、選手と監督とで振り返りを重ねて、戦術の共通理解を高めていきます。同じような状況が再びあったときには、どういう選択肢があって、自分ならどうすればいいのか。このあたりが明確になるほど、選手は自主的に課題に取り組み、試合中はプレーで絡む仲間のことも考えた判断もできるようになっていきます。やるべきことに集中するので、緊張やネガティブな考えなどから固くなるようなことはないはずです。 野球の本質を学びながら実戦を重ねてきた選手たちは、自分たちでサインを出し合いながら試合を組み立てていく 僕は選手たちを、大人の命じるままに動くだけのロボットに育てたいわけではありません。彼らには主体的に野球をしてほしいし、子供ならではの感性が好プレーを生むケースもあります。ともあれ、そういうノーサイン野球も勝つからこそ、指導者も選手も楽しいのだと思います。「野球ごっこ」ではなくて、「勝つ」ということを目的とした選手主体の野球、それが中条のスタイルです。...