監督リレートーク
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
満59歳。昨夏は久しぶりに全国大会も経験した茨城のベテラン監督はなお、学び心も情熱も枯れていません。指導歴30年、チーム消滅の危機を救ってくれたのも、しかるべき方向へと自分を導いてくれたのも同志たちだそうです。堅い絆で結ばれている中でも、とっておきの智将を新たに紹介してくれました。バトンは関東から北信越へ――。 (取材・構成=大久保克哉) いたばし・いさお●1965年、埼玉県生まれ。小5のときに地元・北川辺町(現・加須市)で創設された、北川辺スターズ(現・北川辺ウォーターズ)で野球を始め、主に捕手としてプレー。北川辺中の軟式野球部では三番・二塁で県大会出場、県立高の硬式野球部では主将も務めた。就職に伴い、隣県の茨城・古河市に転居。長男が入団した上辺見ファイターズでコーチを経て監督となった2000年に、当時6年の次男らと全日本学童大会初出場。2005年秋の新人戦で茨城大会優勝、2023年全国スポーツ少年団交流大会に初出場など、チームを全国区の強豪に。多くの指導者の交流の場ともなっている、年末恒例の上辺見ファイターズ交流大会を2014年から主催して10回を数える [茨城・上辺見ファイターズ] 板橋 勲 ⇩ ⇩ 吉川浩史 [新潟・五泉フェニックス] よしかわ・こうじ●1970年、新潟県生まれ。新潟市立鏡淵小で3年から野球を始め、高校まで市立校で捕手一筋。白新中の軟式野球部から高志高へ進み、五番打者として3年春に県ベスト16。転職とともに五泉市に転居し、長男が入部した五泉フェニックスで2007年からコーチを務めて2009年から監督に。2010年に息子2人と全日本学童大会初出場、翌11年も次男と同大会出場。さらに次男が6年生となった2012年は全国スポーツ少年団交流大会初出場と、3年連続で夏の全国出場を果たして全国1勝も挙げた。息子たちが卒団後もチームに残り、今日まで指揮官を務める。秋の新人戦では最高位となる、県大会で2020年に続いて2023年に2回目の優勝を果たしている 酸いも甘いも知る相棒 子どもではちょっと持てないくらいに重い、鉄製のオリジナル。ホームセンターで材料を買い、知り合いに溶接も学んで自分で制作した“マイトンボ”。これは私の唯一の自慢と言えるものかもしれません。 今ではサビ色も目立ちますが、欠くことのできない私の相棒。朝一番の6時にはグラウンドに出て、まずはそれで地面を平らにします。それからまた全面にブラシを掛けて整え、ダイヤモンドの距離を測ってベースを置いてから選手たちを迎える。 活動日の土日祝日は、それが私の絶対のルーティン。力のないチームのときでも、野球の神様に少しでも味方をしてもらえたら――この一心で続けてきて、気付けばコーチ時代を含めてもう30年近く。今では低学年チームのコーチたちも手伝ってくれますが、一人でやっていた時代も長くありました。 手製のマイトンボは、幼子では持ち上がらないほどの重量 指導者になった当初は、地域に埋もれた弱小チーム。ダイヤモンドのベースも適当に感覚で置いて練習していました。県大会出場はおろか、町内大会の上にいつ、どういう大会があるのかなど、誰も知らないような状況でした。 出発点がそこだっただけに、“マイトンボ”と同様に「上辺見ファイターズ」というチームにも名前にも、愛おしい気持ちがいっぱい。加齢とともに愛着は増すばかりです。 昨年は全日本学童の県予選決勝で敗北も、スポーツ少年団交流大会の関東予選を突破して23年ぶりに夏の全国舞台に上がった 総和町(現・古河市)の大会で初めて優勝したときには涙が出ました。みんなと握手して回ったことも、よく覚えています。勝ったらすべて、子どものおかげ。負けたらすべて、指導者の責任――この考えも30年、変わっていません。 県大会に出られるようになってきてからは、常にそのトップ、優勝を目指しています。6年生が多い少ないも関係なく。野球は必ずしも強いチームが勝つのではなく、弱いチームでも勝つことがありますよね。 茨城県のトップにほぼ君臨している茎崎ファイターズの吉田さん(祐司監督=第6回参照➡こちら)も、そういう考え方の指導者だと思います。負けても絶対に、選手の頭数とかレベルを言い訳にしませんよね。昨年は全日本学童大会出場をかけて、県予選決勝で戦わせていただきました(6対18で敗北)。 同志たちに救われ、学ぶ 茎崎はずっと格上のライバルなんですが、一方では同志でもあるんです。ウチが年末に主催する上辺見交流大会は、去年で第10回を数えましたが、初開催を強力に後押ししてくれたのが吉田さんでした。 ウチは当時、6年生が卒団すると残りは4人、5人。チーム消滅の危機にあり、最後の思い出に大会をやれないかと考えていたところ、吉田さんが「いつでも行きますよ、協力します!」と。そこから始まったのがこの交流大会で、第3回大会の年からウチはまた単独チームで活動できるようになりました。 紫外線から目を護るためのサングラスを外すと、ご覧の優しい顔がのぞく その吉田さんをはじめ、「同志」と呼べるような方々との絆が私の大きな財産。吉田さんが大会会長を務める春の東日本交流大会や、吉川ウイングス(埼玉)が主催する秋のローカル大会にも毎年お声掛けをいただき、多くの貴重な出会いが生まれています。私をこのコーナーに紹介してくれた、SNSベースボールクラブの相馬さん(一平監督)もその一人。 出会いは東日本交流大会で、私のほうから相馬さんにアプローチしました。その大会でのSNSの走塁が衝撃的だったのです。それこそ頭をカチン! とやられたような感じでした。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)が今日ほど盛んではなかった2013年。山梨県大月市にて、合併する近隣3チームの頭文字をとって誕生したのがSNSベースボールクラブです。猿橋の「S」、七保の「N」、そして下和田の「S」。初代監督はこの10年あまりで、全国2度出場の強豪へとチームを昇華しつつ、法人化も実現。その背景には、県外の気さくな名将たちとの親交があったそうです。 (取材・構成=大久保克哉) そうま・いっぺい●1967年、山梨県生まれ。大月市の学童チーム・花咲で野球を始める。市立東中の軟式野球部、都留高まで投手兼外野手で、高3夏は山梨大会ベスト8。腰を痛めて東海大でのプレーは断念も、3年時から社会人硬式・桂クラブに入って都市対抗予選などを戦った。引退後は高校時代の輿石重弘監督(現・明桜高/秋田)に師事して指導畑へ。地元の学童チーム・下和田で2年間のコーチを経て2013年、近隣の3チーム統合で誕生したSNSベースボールクラブで監督となり、2017年全日本学童初出場でベスト16、21年は2回戦進出。2021年4月にチームを一般社団法人として代表に。選手・保護者に向けたブログを2014年9月から毎日更新中 [山梨/SNS ベースボールクラブ] 相馬一平 ⇩ ⇩ 板橋 勲 [茨城/上辺見ファイターズ] いたばし・いさお●1965年、埼玉県生まれ。小5のときに地元・北川辺町(現・加須市)で創設された、北川辺スターズ(現・北川辺ウォーターズ)で野球を始め、主に捕手としてプレー。北川辺中の軟式野球では三番・二塁で県大会出場、県立高の硬式野球部では主将も務めた。就職に伴い、隣県の茨城・古河市に転居。長男が入団した上辺見ファイターズでコーチを経て監督となった2000年に、当時6年の次男らと全日本学童大会初出場。2005年秋の新人戦で茨城大会優勝、2023年全国スポーツ少年団交流大会に初出場など、チームを全国区の強豪に。多くの指導者の交流の場ともなっている、年末恒例の上辺見ファイターズ交流大会を2014年から主催して10回を数える 自ら「人間力」の模範に 「試合で打ちたかったら、家で素振りをするよね!?」「1日24時間はみんな同じだけど、その使い方は自分で決められるんだよ!」…。 人格も自我も発達段階にある小学生なら、そういう講釈も素直に聞いてくれることでしょう。ただし、話をする大人の側に行動が伴っていなかったら、説得力に欠けしてしまうと思います。 私が『不撓不屈/野球小僧達の超戦!』と題したチームのブログを開設したのが2014年の秋。それから毎日、発信を続けているのはそういう側面があるからです。もう10年が過ぎたんですね。正直、1日も欠かさずにやり続けるのは、しんどい面もあるにはあります。 でも、1年365日の使い方もまた、自分次第。時間がなければ2行や3行でもいいので、とにかく自分の言葉で自分の想いを毎日発信する。今ではこれが習慣のようになっています。小学生には少し難しい言葉や内容のときもありますが、保護者が読んでくれれば、各家庭で子どもに伝えてくれると思っています。 グラウンド内だけで育成は完結しない。活字のほうが伝わることも多々ある 学童野球は技術と体が一番ではない。メンタルなスポーツだと私は考えています。ですから、野球を通して人間力を上げていくことを指導の主眼としています。 勝敗や上手とヘタは一番最後にくることで、まず大切なのは継続する力。そして失敗しても、次は失敗しないように努力をすること。好きなことなら努力ができるので、野球が自ずと好きになれるような配慮もしています。 一斉に始まる打撃のローテーション練習は待ち時間ゼロ。選手を飽きさせない仕掛けが随所に なんだか偉そうに言っていますが、監督になって最初の4年間は数々の失敗がありました。采配ミスも度々。「楽しもう!」と選手たちの好きにやらせてきた結果、勝負所の試合では緊張でまったく打てなかったことも…。 今は自主性と強制でバランスをとっています。ボトムアップで行き詰まったときに、的確な答えを出してあげる。それが指導陣の大きな役目だと考えています。 カッコいい恩人 毎年の選手の人数や、保護者の意見や負担の度合いなどに左右されることなく、永続的に安定したチームにできないものか――。2017年に全国大会(全日本学童マクドナルド・トーナメント)に初出場したころから、私はこういう願望を強く抱くようになりました。 2017年と2021年に全日本学童大会出場。記念碑が今日も練習を見守る どんなに素晴らしい体験をしても、選手はやがて卒団します。チームに残る保護者もほとんどいません。貴重な経験や積み上げたノウハウが引き継がれ、チームの財産となるのは稀で、年度替わりでリセットされてしまうのが通例。これでは、いつまで経っても徒労感と危機感が拭えませんよね。 そういうなかで、「チームの法人化」というヒントときっかけを与えてくれたのが、吉川ウイングスの岡崎さん(真二監督)です。出会ったのは、あるローカル大会。それからは、ウイングス主催の大会にも参加をさせていただくようになりました。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
単独チームには難関の埼玉大会を制して、2021年夏に全国出場。コロナ禍の自粛期間に組織をNPO法人とし、今や交流の輪は競技や年齢の枠も超えている。先駆的な取り組みもリードする賢将は、同じく全国区のチームを法人化させた山梨の名将へとバトンを托しました。 (取材・構成=大久保克哉) おかざき・しんじ●1974年、広島県生まれ。中通少年野球団で野球を始める。2014年に埼玉県吉川市に転居し、3人の息子(当時・小5、小2、園児)が入団した吉川ウイングスで2015年から指導者に。低学年のコーチや監督などを経て、高学年の監督に就任した2021年に埼玉予選を制し、17年ぶりに全日本学童大会に出場(1回戦で大阪・長曽根ストロングスに5対8で敗北)。一方、組織の長として2020年5月にはチームをNPO法人に。年間3つのローカル大会を主催しつつ、行政と手を組んでの野球教室や地元の少年サッカーチームなどとの交流、SDGsの取り組みなど、野球だけに限らない経験の場を子どもたちに提供している [埼玉・吉川ウイングス] 岡崎真二 ⇩ ⇩ 相馬一平 [山梨・SNS ベースボールクラブ] そうま・いっぺい●1967年、山梨県生まれ。大月市の学童チーム・花咲で野球を始める。市立東中の軟式野球部、都留高まで投手兼外野手で、高3夏は山梨大会ベスト8。腰を痛めて東海大でのプレーは断念も、3年時から社会人硬式・桂クラブに入って都市対抗予選などを戦った。引退後は高校時代の輿石重弘監督(現・明桜高/秋田)に師事して指導畑へ。地元の学童チーム・下和田で2年間のコーチを経て2013年、近隣の3チーム統合で誕生したSNSベースボールクラブで監督となり、2017年全日本学童初出場でベスト16、21年は2回戦進出。2021年4月にチームを一般社団法人として代表に。選手・保護者に向けたブログを2014年9月から毎日更新中 唯一、泥んこの入場行進 昨年夏の全日本学童マクドナルド・トーナメントの開会式(東京・神宮球場)。入場行進した51チームの中で唯一、ユニフォームがドロで汚れているチームがあったことをご存知でしょうか。 東京第1代表のレッドサンズです(写真下=全国大会では銅メダル)。彼らのあの泥んこの姿が私には誇らしくて、うれしくて、胸が熱くなりました。というのも、その日のレッドサンズは1試合を消化して、その足で夕方からの全国大会開会式へ。その「1試合」というのが、私たち吉川ウイングスが主催するローカル大会「NPO WINGS CUP(ウイングス・カップ)」の決勝だったのです。レッドサンズは、これをきっちりと勝たれました。 昨夏の全日本学童大会開会式。東京・レッドサンズの入場行進(2023年8月5日、明治神宮野球場) 真夏の一番暑い時期。翌日からは最多6連戦となる全国大会でしたので、ウイングス・カップの決勝戦を辞退されたとしても、仕方のないことでした。しかし、彼らは当然のように決勝の会場に現れて、また当然のように、抜かりのない戦いぶりで優勝。大エースの藤森クン(一生※学童野球メディア「2023MVP」➡こちら)も登板しました。 大会に出る・出ないは、指揮官の一存で決まるようなものではありません。それでも、監督の門田(憲治)さんの意向も大いに作用して、レッドサンズのみなさんが義理を果たしてくれたのだと思っています。ウイングス・カップにも、参加チームのみなさんに対しても。 門田さんとの出会いも実は、ウイングス・カップ(低学年の部)でした。われわれがNPO法人となった2020年に、新たに起ち上げた第1回大会。これにレッドサンズの4年生以下を引き連れて参加してくれたのが門田さん。初対面でしたので、多くを話した記憶はありませんが、当時3年生でセンターを守っていた藤森クンのことはよく覚えています。 落ち着いたベンチワークと粘り強さも吉川ウイングスの特長 低学年の部の主役は4年生です。1学年下の藤森クンは当時、それほど身長も高くなかったのに、走攻守にわたって際立っていました。門田さんが率いるレッドサンズはそれ以降も毎年、われわれのローカル大会(年間で2つあり)に参加してくださり、藤森クンの成長過程も見て取ることができました。6年生になると(昨年)、120㎞を超えるスピードボールをバンバン投げて、全国から注目されるすごい選手に。自分の教え子ではありませんけど、身近な存在として、とてもうれしく思っていました。 門田さんは非常にクレバーな監督。率いるチームが年々、強くなっているのもよくわかりました。向上心が旺盛で、会話をしていても学び続けようという意志や熱さが感じられる。そして大激戦区の東京の全国予選で2連覇されて、昨年はさらに全国3位という、素晴らしい成績を残されました。 新年度からは末っ子のいる4年生チームの監督ということで、少なくともあと3年は学童野球で指揮をされる。さらにパワーアップした「門田野球」を見られるでしょうから、今から楽しみにしています。どのチームにもそれぞれに事情があるものですが、門田さんは学童野球を東京から引っ張っていかれるべき名将だと私は思っています。 2021年夏に17年ぶり2度目の全日本学童出場(提供/吉川ウイングス) ただ、その門田さんがまさか、東大のご出身とは…。この『監督リレートーク』の記事を見て初めて知った、というのは私だけではないと思います。それでも、点と点が結びついたというのか、あらためて納得したところのほうが大です。 本気の相談から法人格に...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪『監督リレートーク』は、2ケタの10人まで広がってきました。最激戦区・東京の智将は最高学府の頂・東大卒で、野球においても感心なほど勤勉。そして次にバトンを托したのは、先のコロナ禍での自粛期間にチームを法人化し、翌夏に全国出場など、時代の先端をリードする埼玉県の賢将です。 (取材・構成=大久保克哉) かどた・けんじ●1978年、北海道札幌市生まれ。父親の仕事の関係で、小学生までは愛知県や東京都など転校を繰り返す中で、東京・清瀬市のレッドイーグルス(現レッドライオンズ)で3年生から野球を始めた。札幌市立栄南中の軟式野球部では強肩の外野手として活躍。札幌北高では1年時にラグビー部、以降は勉学に専念して東大へ進学。2012年4月、長男がレッドサンズに入って1カ月後にコーチに。18年に次男らの2年生チームの監督となり、6年時の22年夏は全日本学童ベスト8まで導く。翌23年も6年生チームを率いて東京勢最高成績の同大会3位に。来たる24年度からは、三男らがいる4年生チームを率いることが決まっている [東京・レッドサンズ] 門田憲治 ⇩ ⇩ 岡崎真二 [埼玉・吉川ウイングス] おかざき・しんじ●1974年、広島県生まれ。中通少年野球団で野球を始める。2014年に埼玉県吉川市に転居し、3人の息子(当時・小5、小2、園児)が入団した吉川ウイングスで2015年から指導者に。低学年のコーチや監督などを経て、高学年の監督に就任した2021年に埼玉予選を制し、17年ぶりに全日本学童大会に出場(1回戦で大阪・長曽根ストロングスに5対8で敗北)。一方、組織の長として2020年5月にはチームをNPO法人に。年間3つのローカル大会を主催しつつ、行政と手を組んでの野球教室や地元の少年サッカーチームなどとの交流、SDGsの取り組みなど、野球だけに縛られない経験の場を子どもたちに提供している 10年超の全国観戦歴 私たちが住む東京では、毎年8月に全日本学童大会(マクドナルド・トーナメント)が開催されています。私はレッドサンズのコーチになった2012年から、毎年のように神宮球場などに足を運んで観戦してきました。 印象的だったのは2014年に初優勝した和気軟式野球クラブ(愛媛)。選手は10人ちょっと(計12人)で不動のオーダーのまま、逆転勝ちばかり。監督(甲斐清隆)は豪快でとても明るい感じでしたよね。あとは、ほとんどが5年生で優勝した曽根青龍野球部(兵庫)も驚きでした(2013年)。 2022年の全日本学童大会。コロナ禍ながら、東京・神宮球場での開会式は入場行進も復活した 全日本学童大会は「小学生の甲子園」とも言われていますが、一般のチームには遠い夢の世界。予選突破が困難で、存在そのものを知らない人も多いのだと思います。私も長男が野球を始めるまではよく知りませんでしたし、まさか自分も背番号30でそこに立てるなんて、当初は想像できませんでした。 一方、全国大会で勝つのがいかに難しいか、当時から私なりに感じてきたつもりです。衝撃的なくらいにハイレベルな選手もいるし、1点をめぐる高度な戦術や駆け引きもある。そこで采配をしている監督は大きな憧れでした。 博学で野球でも向上心が旺盛。2022年、ついに自らも全国大会で采配(写真は2023年) 私をこのコーナーに紹介してくれた豊上ジュニアーズの監督、髙野(範哉)さんも「雲の上の存在」。長らく、自分が一方的に知っている、というだけの人でした。 千葉代表で全国に初めて出場されたのが2016年。これもよく覚えています。この年は私の長男が5年生になっていて『来年は自分たちもここ(全国)に出たい!』と、初めてリアルな目標としながら観戦していたからです。 名将からの親身な助言 翌年(2017年)、自分たちのその目標は叶わず。でも髙野さんの豊上は2019年から2年連続で全日本学童3位など、変わらず「雲の上の人」でした。 その豊上と初めて試合をさせてもらった(※チーム同士の交流はそれ以前からあり)のが2018年。私は次男のいる2年生チームの監督になっていて、下級生の試合なので髙野さんはいませんでした。でも、私は当時から「豊上に追いつくぞ!」と、勝手に選手たちを鼓舞してきました。 2022年の全日本学童。東京勢にとっても最高成績タイの8強までチームを導いた そして次男たちが5年生になるあたりから、髙野さんのトップチームと試合をさせてもらえるように。それからはもう数えきれないほど、胸を貸していただいています。次男たちの全日本学童ベスト8(2022年)も、翌2023年の同大会3位も、豊上との定期的な試合を抜きにはあり得なかったと思っています。 髙野さんは試合をすると、必ず助言をしてくれるんです。それも社交辞令的なものではなく、弱点でも何でも思ったことをハッキリと。「あのピッチャーは緩いボールは必要ないんじゃないか?」とか、踏み込んだ意見をいただけるのが希少で逆にとてもありがたい。 今では私が率いる学年チームも、あちこちの強豪チームと試合をさせてもらえるようになりました。でも、髙野さんのようにどこまでも親身に本音で話してくれる監督には巡り合えていません。もちろん、自分にもできることではないです。 2年連続出場の全日本学童、2023年は銅メダルに輝いている...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪『監督リレートーク』。2023年最後のバトンは、新たに総監督となってトップチームも再び率いることになった千葉県の名将から、大激戦区・東京の智将へ。今夏の全日本学童3位、新年度から4年生チームを率いての3年計画で頂点をうかがう指揮官は何と! 最高学府の頂・東大の出身者です。 (取材・構成=大久保克哉) たかの・のりちか●1966年、北海道生まれ。千葉県松戸市に移り住んだ小4から野球を始め、県柏高卒業までプレーした。2006年、長男とともに豊上ジュニアーズに入団してコーチに。低学年の監督を2年間務めた後、高学年の監督となって2016年にチームを全日本学童大会に初めて導く。これを機に交流の輪も広がり、選手が増えてきた組織の再編も主導。全日本学童大会は19年から2年連続で銅メダル、3大会連続出場となった2022年は8強入り。現在は4チームが活動する中で、23年度は3年生以下のチームの監督。来たる24年度からは総監督として各チームの橋渡し役も務めながら、6年生チームを再び率いることが決まっている [千葉・豊上ジュニアーズ] 髙野範哉 ⇩ ⇩ 門田憲治 [東京・レッドサンズ] かどた・けんじ●1978年、北海道札幌市生まれ。父親の仕事の関係で、小学生までは愛知県や東京都など転校を繰り返す中で、東京・清瀬市のレッドイーグルス(現レッドライオンズ)で3年生から野球を始めた。札幌市立栄南中の軟式野球部では強肩の外野手として活躍。札幌北高では1年時にラグビー部、以降は勉学に専念して東大へ進学。2012年4月、長男がレッドサンズに入って1カ月後にコーチに。18年に次男らの2年生チームの監督となり、6年時の22年夏は全日本学童ベスト8まで導く。翌23年も6年生チームを率いて東京勢最高成績の同大会3位に。来たる24年度からは、三男らがいる4年生チームを率いることが決まっている 感動が薄れてしまい… この2023年は、結果としてリフレッシュをさせてもらうことができました。6年生チームを率いてくれた原口さん(守監督、新年度から5年生チームのヘッドコーチ)ほか、チームのみなさんに理解と協力をいただいたおかげです。 初めて受け持った3年生チームは、幼い分だけより可愛い子たちでした。6年生チームのように全国大会に向けて、ひたすらに勝利を追求するわけでもないし、個々の成長の度合いもよくわかる。ほとんどノープレッシャーの中で、1本のヒットや1つの好プレーを本人たちと喜んだりすることもできました。 3年生チームでも指導するべきは指導しつつ、笑顔も絶えなかった 以前の『学童野球メディア』のインタビューでも言いましたけど、1年前の私は指導者として「感動が薄れてきてしまった」状態でした。全日本学童大会に連続(2019年から3大会連続)で出られた反面、勝利へのプレッシャーはほぼエンドレスで相当なもの。正直、心を休めたいというのが一番の願いでした。 それが今はまた、あのヒリヒリするような勝負の世界でやってみたい、というところまで気持ちも戻ってきました。全国大会を再び目指したいと思います。 原口さんは6年生最後の大会だった、11月の千葉県ろうきん杯で優勝。決勝では、全日本学童3位のチーム(八日市場中央スポーツ少年団)に7対0の完勝ですから、立派なものです。県予選で負けて夏の全国大会は行けなかったけど、それだけの能力があるということと、予選敗退以降も切れずにやってきたことを証明してくれたと思います。 6月の県予選で涙した6年生たちが11月には県制覇、原口監督と有終の美を飾って笑顔に 原口さんはとにかく、マジメで一生懸命な人。朝の8時集合でも、必ず7時には来ているような几帳面さと自分への厳しさもある。元々、同じ柏市の別のチーム(松葉ニューセラミックス)で監督をしていたころから、そういうところが際立っていましたね。 全国のトップに立つべく 私もそうでしたが、学童の指導者は息子や娘の代のコーチから始まるのが大半ですよね。でも原口さんは、自分の息子たちの学年にだけ固執していなかった。息子たちの代は別の指導者に任せて、目の前の選手たちのために真剣に指導をしている感じ。 そこで、私が監督を兼務していた市選抜チームのほうをコーチで手伝ってもらうようになって、4年目から豊上ジュニアーズの指導陣に正式に加わってもらいました。ふだんの生活の面や自主練習など、従来のウチに足りなかった部分もフォローしてくれています。 ホントは新年度も、原口さんには6年生チームを一緒にやってほしかったんです。ただ、チーム全体のバランスとスタッフの配置などの関係で、5年生チームのヘッドコーチに。私は4年生以上の主要な大会は30番をつけてベンチに入りますけど、5年生チームは原口さんの采配も多くなると思います。また6年生チームが夏の全国出場を決めたときには、原口さんにはまたベンチに入ってもらうつもりです。 4回目の全国采配となった2022年は、猛打のチームで8強入り 1年の「リフレッシュ期間」をいただいた中で、学年の壁を超えた大きなうねり、系統立った指導の必要性を強く感じました。従来は各学年それぞれのやり方で完結してきたけど、それでは全国のトップにはなれなかった。ウチは良くも悪くも、内外から「髙野野球」とよく言われますけど、それは私一人の考えでしかなくて、もっと良い案がまだあるはずなんです。とにかく、全国では勝ち切れなかったんですから、進化していかないといけません。 新年度からは、打ち方でも投げ方でも技術的な指導に、全学年に共通認識と段階を持たせたいと思っています。私が総監督となって、原口さんに5年生をお願いするのは、そのためでもあります。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪『監督リレートーク』は8人目にして初めて、チーム内でバトンが渡ることになりました。指揮官の交代は、学童野球ではよくあること。ここ数年で全国トップクラスに昇華した千葉・豊上ジュニアーズは、悲願の日本一を期して来年度から指導陣も新たな配置に。原口守監督は、5年生チームのヘッドコーチに就任することになりました。 (取材・構成=大久保克哉) はらぐち・まもる●1976年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部、鴻巣高を通じて中堅手。卒業後は恩師の故・須藤章雄監督(当時)の誘いで鴻巣高の外部コーチを務める傍ら、社会人硬式・都幾川クラブで招待選手として3年間プレーした。2011年に埼玉県から千葉県柏市に移住、13年に松葉ニューセラミックスで父親コーチとなり、低学年監督を経てトップチーム監督に。18年から柏市選抜コーチも務め、2021年に豊上ジュニアーズの5年生チームのコーチに就任。翌22年秋の県新人戦を制して関東大会出場。同メンバーを率いて23年度は6年生チームの監督を務める [千葉・豊上ジュニアーズ] 原口 守 ⇩ ⇩ 髙野範哉 [千葉・豊上ジュニアーズ] たかの・のりちか●1966年、北海道生まれ。千葉県松戸市に移り住んだ小4から野球を始め、県柏高卒業までプレーした。2006年、長男とともに豊上ジュニアーズに入団してコーチに。低学年の監督を2年間務めた後、高学年の監督となって2016年にチームを全日本学童大会に初めて導く。これを機に交流の輪も広がり、選手が増えてきた組織の再編も主導。全日本学童大会は19年から2年連続で銅メダル、3大会連続出場となった2022年は8強入り。現在は4チームが活動する中で、23年度は3年生以下のチームの監督。来たる24年度からは総監督として各チームの橋渡し役も務めながら、6年生チームを再び率いることが決まっている 大ボスが総監督に 豊上ジュニアーズは現在、6年生、5年生、4年生、3年生以下の4チームで活動をしています。そして以前から私も提案していたことですが、組織をここまで強く大きくしてきた大功労者、髙野(範哉=現3年生チーム監督)が、来年度から「総監督」という新たなポジションに就いて、全チームの指揮を執ることに。 その髙野からの指名で、今年度の代表チーム(6年生)の監督を務めた私は、来年度は5年生チームのヘッドコーチに。ここ数年で急激に大きくなった組織ですから、試行錯誤の部分も少なからずあるのだと思います。 以上のことから『学童野球メディア』編集部にも相談の上、監督リレートークは私の希望によって、同一チーム内でのバトンタッチとなりました。ご理解をいただけると幸いです。 豊上はやはり、良くも悪くも髙野のチームである――。外様のコーチとして招かれて3年目の私が、代表チームの監督をさせてもらっての率直な感想がそれです。チーム内や市内県内だけではなく、県外からもそう思われている。それを実感することも多い1年でした。 専用グラウンドでの平日練習前、夕闇で草むしりをする人物が一人。それが原口監督だった。「別に珍しいことではないです」 「代表監督」の大役を担った私に対して、親交のあるチームや指導者から励ましの声も多くいただきました。一方で、どこか引っかかるような言葉や、自分にとっては好ましくない雑音が耳に入ってくることも正直、ありました。 また私自身も、髙野がつくりあげた豊上の野球の継承を最優先の使命としてきました。改革と呼べるようなものは必要性すら感じていませんでしたし、特別に新しいことをした覚えもない。もちろん、私なりに学童野球の指導哲学があります。 視野が広がった6年生 『野球(技術)だけをしていても、上達しないし、良いプレーにもつながらない』――。 たとえば試合中の守備や走塁。ボールだけを見ていたら、ファインプレーやナイスランにはつながりませんよね。守備中なら、打者のタイミング、スイング、足は速さ…。自分が走者なら、投手の投球軌道、けん制パターン、捕手の肩、ステップや握り替えのスピード、各場面での野手の位置や捕球体勢…。子どもたちの感じる「視野」が、上達を生むカギだと私は考えています。 そういう意味では、指導において人間性を重視している部分もあります。もちろん、小学生ですから、人間性を否定するようなことはしません。私の経験則では、人の話を聞けて且つ行動できる選手、会話のできる選手の上達は格段に早く、チームの中心になっていく。たとえば、試合でミスしたプレーを繰り返し練習する選手と、ミスそっちのけでやりたいことだけをやっている選手。落ちているゴミに気付くか気付かないか、またそれを拾うか、見て見ぬふりか…。そうした違いが、上達度とイコールであることがとても多いのです。 今の6年生たちには、そういったことが備わってきたことを実感しています。練習の準備や後片付けも、前例にないほどスムーズで早くこなせるように。練習ではいくつかのメニューを伝えると、ローテーションを組んで子どもたちなりに考えて実践し、𠮟咤激励も選手間で。また学年やチームの隔てなく、フレンドリーに接することができるというのも、彼らの取柄のひとつになっています。 一体感は、保護者にも及んでいます。たとえば、グラウンドの草むしりや(柏市)連盟の大会の会場設営。私は前チームの時代から率先してやってきていますが、今では豊上の6年生の保護者が一番に手伝ってくれるようになりました。 時と場合に応じて考えや判断を選手個人に委ねるのも原口流。平日練習の着衣も自由に...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
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あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪『監督リレートーク』は7人目です。今夏も全日本学童大会に出場した茨城・茎崎ファイターズの吉田祐司監督からバトンを受けたのは、昨夏の同大会4強の埼玉・熊谷グリーンタウンの斉藤晃監督。偶然にも、地元の後輩でもあるという千葉の気鋭の指揮官へ、激励も込めたメッセージを送ってくれました。 (取材・構成=大久保克哉) さいとう・あきら●1973年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部では一番・三塁で活躍。行田工高でラグビー部に入り、2年時にはウイングの11番で花園(全国大会)出場、3年時はスタンドオフ10番。卒業後は社会人のソフトボールでもプレー。甥っ子たちが入団した熊谷グリーンタウンで、コーチを経て2004年から監督に。翌05年秋の新人戦で関東4強入り。2016年から2年連続で全日本学童大会に出場し、ともに初戦を突破して2回戦で惜敗。5年ぶり3回目の同大会出場となった昨夏は、猛打で4強まで勝ち進んだ [埼玉・熊谷グリーンタウン] 斉藤 晃 ⇩ ⇩ 原口 守 [千葉・豊上ジュニアーズ] はらぐち・まもる●1976年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部、鴻巣高を通じて中堅手。卒業後は恩師の故・須藤章雄監督(当時)の誘いで鴻巣高の外部コーチを務める傍ら、社会人硬式・都幾川クラブで招待選手として3年間プレーした。2011 年に埼玉県から千葉県柏市に移住、13 年に松葉ニューセラミックスで父親コーチとなり、低学年監督を経てトップチーム監督に。18 年から柏市選抜コーチも務め、2021 年に豊上ジュニアーズの5年生チームのコーチに就任。翌 22 年秋の県新人戦を制して関東大会出場。同メンバーを率いて 23 年度は6年生チームの監督を務める 熊谷グリーンタウンは1980年創立なので、43年の歴史があります。私はそのだいたい半分の20年間、監督をさせてもらっていますが、試合でスクイズをしたのは片手で数えるほど。打者に対して「待て!」というサインも、基本的にありません。 要するに、初球のストライクから打って得点するという野球を掲げています。去年はまさにそういうチームで、夏の全国大会(ベスト4)では打力を発揮して、サヨナラ勝ちや2ケタ得点した試合もありました。みなさんから「すごいね」と打力を褒めていただきました。 昨年は6年生10人を率いて全日本学童大会に出場。5年ぶり3回目の夢舞台で派手に打ちまくり、4強まで進出した ただし、私からすれば去年のチームも、言葉は悪いですが、おデブさんとおチビさんの集まり。当時のキャプテンで西武Jr.でもプレーした志保田来夢(武蔵嵐山ボーイズ)など、普通にサク越えを打つ子もいましたけど、世代を代表するような特別にすごい怪物級かと言えば、私はそこまでとは思っていませんでした。 埼玉で勝つ意義 得点は打つことから。一方、チームづくりで私が最優先にしているのは、「最低限の守備」を全員に授けること。ある一定以上は確実に守れないと、戦いも結果も安定しない。ハッキリ言うと例年、打つほうはそんなにアテにしていないんです。打線はどんなに迫力があろうと、0対1で負けることがありますからね。 昨年は確かに、パワフルな打撃が目立ったと思います。でも私が一番に評価しているのは、予選の埼玉大会も全国大会もノーエラーだったこと。みんなよく守りましたね。常時100km以上を投げるようなスーパーエースがいない代わりに、誰がいつ登板してもストライクを確実に奪える投手陣でした。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
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あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。「監督リレートーク」は6人目となりました。全日本学童大会に2年ぶり10回目の出場を決めた茨城・茎崎ファイターズの吉田祐司監督。厳しさも隠さぬ一本気な満50歳の名将は、埼玉で老舗チームを長らく率いる同級生へ、己にも通じる熱いメッセージを送ってくれました。 (取材・構成=大久保克哉) よしだ・ゆうじ●1973年、茨城県生まれ。茎崎ファイターズで野球を始め、つくば市立高崎中で軟式野球部。竜ヶ崎一高で2年夏に甲子園出場(2回戦)、主将を務めた3年夏は四番・一塁で甲子園3回戦進出、松井秀喜を擁する石川・星稜高に3対4で惜敗。福井工大で大学選手権4回、神宮大会2回出場。96年に茎崎ファイターズのコーチとなり、99年から監督に。2001年初出場の全日本学童は今夏で10回目に。19年に準優勝、3位が3回。2015年全国スポ少交流2回戦進出。卒団生の次男・慶剛(千葉・専大松戸高3年)が今春の甲子園で本塁打も放っている [茨城・茎崎ファイターズ] 吉田祐司 ⇩ ⇩ 斉藤 晃 [埼玉・熊谷グリーンタウン] さいとう・あきら●1973年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部では一番・三塁で活躍。行田工高でラグビー部に入り、2年時にはウイングの11番で花園(全国大会)出場、3年時はスタンドオフ10番。卒業後は社会人のソフトボールでもプレー。甥っ子たちが入団した熊谷グリーンタウンで、コーチを経て2004年から監督に。翌05年秋の新人戦で関東4強入り。2016年から2年連続で全日本学童大会に出場し、ともに初戦を突破して2回戦で惜敗。5年ぶり3回目の同大会出場となった昨夏は、猛打で4強まで勝ち進んだ 悔し涙なんか、誰でも流せる。どうせ泣くんなら、うれし涙を流せ! ウチの子どもたちにはよくそういうことを言っています。自分自身も、茎崎ファイターズというチームで監督をさせてもらっている以上は、負けられない! 正直、常にそれがあります。毎年の選手の頭数とか能力で、そこが変わることは決してありません。 全員が同じ志の組織 目標はあくまでも全国大会――。選手も保護者もそれを知って、求めて入ってきてくれています。だから、今年は6年生が6人だけですけど、そういう言い訳は絶対にしてきませんでした。ただ、今年のチームはホントに力がなかったので、県大会で優勝(全日本学童出場決定)したときには、今までにないくらいのうれしさがありましたね。 歴代のOBや家族らを含む大応援の中で、今夏の全日本学童出場(県優勝)を決めて、胴上げされた(6月24日、水戸市) そのあたりは3人のOBコーチ、佐々木(亘)と茂呂(修児)と小林(拓真)もしっかりとわかってくれていて、危機感も喜びも同様だったと思います。監督がどうというより、組織力で勝たせてもらったということですね。 私をこのコーナーに紹介してくれた天井クン(正之監督)の、常磐軟式野球スポーツ少年団(福島)に実績はぜんぜん及びませんけど、OBの指導陣でカチッと団結している、という点では茎崎も同じだと思っています。 天井クンと出会ったのは20年以上前。お互いに大学野球までプレーして、古巣の学童チームでコーチになっていたころ。正直、堅いなという第一印象でした。常磐といえば当時から学童野球を引っ張る存在で、全国は出て当たり前でそこでいかに勝つかを考えられているようなチームでしたから。天井クンは学年は1つ下ですけど、逆に同年代だからこそ甘さを見せないというか、絶対に負けたくない、という感じがあったんじゃないかなと思います。 それでもチーム同士の交流が定期的にあって、お互いに監督になってからは行き来のタイミングで酒席もともにするように。そういう中で徐々にお互いの心が開いて、気付いたら何でも話せる関係になっていましたね。 動じぬ男の一度きりの弱音 ウチらは常磐を目標にずっとやってきましたし、常磐との練習試合がひとつのバロメーターになっているんです。勝った負けたじゃなくて、今の自分たちのチームの立ち位置だとか、前回からの成長具合だとかを判断することができる。今でももちろん、目標とするチームです。 天井クンがすごいのは、動じないところ。ほぼ同時期に、若くして監督になりましたけど、天井クンの常磐はすでに名門中の名門。自分が監督になった当時の茎崎は、まだ全日本学童にも出ていませんでしたから、プレッシャーも雑音も比較にならなかったと思うんです。でも天井クンは、野球に関しては当初から少しもブレていない。誰にでもできることじゃないですよね。 1999年の監督就任時から、同級生の佐々木コーチ(写真上右)と後輩の茂呂コーチ(同左)と三人四脚。「優勝したらまず佐々木コーチと握手がお決まり」(吉田監督=写真下) 今でも忘れられないのは、2011年の東日本大震災の後のこと。福島県はいわき市も含めて沿岸部も津波で大きな被害を受けて、街のほうも壊滅的で他の県に引っ越してしまう子どもたちもいたり。そういう中で天井クン(当時は家庭の事情でチーム顧問)から電話が掛かってきたんです。 「もしかしたらもう、野球ができないかもしれない…」 後にも先にも聞いたことがない、弱々しい声と口調。それまでの強気な天井クンじゃなかったんです。正直、自分は話を聞くだけで、何も言ってあげることができなかったですね。「頑張れよ!」とか言うのは簡単ですけど、そういう他人事みたいな声掛けは逆にできなかったんです。 でもその分、何とかして震災前までのような感じでやれないかな、と。常磐も天井クンも、こんなところで終わらずに復活してもらわなくちゃいけない、と思っていましたからね。福島では野球ができる状況じゃなかった期間には、常磐のみなさんは茨城県内で練習をされることもあったので、自分たちもできるだけそこに顔を出したり。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
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あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。「監督リレートーク」は5人目の登場です。全日本学童大会の最多出場記録を今夏で23回へと更新を決めたばかりの福島・常磐軟式野球スポーツ少年団の天井正之監督。年齢も経歴も監督キャリアも類似している茨城県の同志へ「どちらが先に日本一になりますか!? 新年会も復活させましょう!」と、親愛も込めたメッセージを送ってくれました。 (取材&構成/大久保克哉) あまい・まさゆき●1974年、福島県生まれ。常磐軟式野球スポーツで野球を始め、6年時に四番・捕手で全国スポ少年交流に2回戦まで進出。湯本一中で四番・投手、湯本高でも看板打者で3年夏に県準優勝。中大まで硬式野球を続け、卒業後に地元・いわき市で消防職員に。同時に古巣・常磐でコーチとなり、2000年から監督を務めて02年と05年に全日本学童準優勝、07年は全国スポ少交流で優勝。09年から顧問、15年に指揮官に復帰。監督として全国2大大会通算14回出場、優勝1回、準優勝2回、3位が1回。今夏の全日本学童出場(15回目)も決めている [福島・常磐軟式野球スポーツ少年団] 天井正之 ⇩ ⇩ 吉田祐司 [茨城・茎崎ファイターズ] よしだ・ゆうじ●1973年、茨城県生まれ。茎崎ファイターズで野球を始め、つくば市立高崎中で軟式野球部。竜ヶ崎一高で2年夏に甲子園出場(2回戦)、主将を務めた3年夏は四番・三塁で甲子園3回戦進出、松井秀喜を擁する石川・星稜高に3対4で惜敗。福井工大で大学選手権4回、神宮大会2回出場。96年に茎崎ファイターズのコーチとなり、99年から監督に。2001年初出場の全日本学童は通算9回出場、19年に準優勝、3位が3回。2015年全国スポ少交流2回戦進出。卒団生の次男・慶剛(千葉・専大松戸高3年)が今春の甲子園で本塁打も放っている おかげさまで、今年の夏の全日本学童大会出場を決めることができました(2年連続23回目)。今年に限ったことではありませんが、伝統と組織力の勝利だと思っています。 「負けたくねぇ」執念 地区予選(磐南)の決勝では、同じいわき市の小名浜(少年野球教室)さんに勝たせていただきましたけど、1点差(2対1)でしたし、小名浜に勝たねぇと全国に出らんねぇ、というのも毎年のこと。福島大会の決勝でまた対戦する組み合わせでしたが、今年は違う相手との決勝でした(小名浜は準決勝で敗退)。 昨夏の全日本学童1回戦は、大会初導入のナイトゲームに。大会前のコロナ感染などでベストメンバーで戦えずに敗退した 私が常磐でプレーしていたときにはもう、小名浜さんを強く意識していましたね。今では全国出場回数はウチのほうが多いですけど、小名浜さんのほうが歴史が古くて全国出場も先。常磐の全国初出場は私が6年生のとき(1986年全国スポ少交流)で、今でも常磐を支え続けてくれている大平清団長が、ばりばりの監督(初代)でした。このあたりからライバル関係も強くなってきたんだと思います。 そして常磐が何年も続けて全国出場している時期に、小名浜の監督を引き受けられた(1994年)のが小和口さん(有久監督)。私をこのコーナーに紹介してくれた監督ですが、就任当初はプレッシャーもあったり、何かとたいへんだったと思います。 小和口さんの勝負に対するどん欲さは、すごいものがある。どっから、あんだけ湧いてくんの? というくらい。聞いた話ですけど、平日の朝早くから練習することもあるそうです。これまでに数えきれないほど、公式戦で戦ってきてますけど、絶対に負けたくねぇという執念をいつも感じますね。そこは私も同じですけど。 創立40年目となる今年も、平日のナイター練習(下)を経て2年連続23回目の全日本学童出場を決めている 小和口さんの記事にもありましたけど、今年はウチのほうが行けっかな(相手より上の手応えあり)というときに、意外と負けることがある。現状維持よりも、必死に追い抜こうとするほうが強くなるんだと思います。安心しちゃダメだということですよね。小和口さんとの対戦の中で、学ばせてもらったことのひとつです。 大記録更新中の背景 常磐の野球は、確かに緻密です。試合中の監督は、決断の連続です。ただ、緻密な野球はそれだけの時間と手間もかけることで成り立っていますし、どんな作戦も私の独断や根拠のない思いつきではないんです。試合中の瞬時の判断は私(監督)になりますけど、一緒のベンチにいる大平団長やコーチ陣とは常に情報を共有しながら、意見も交わしています。 常磐を創成期から支える大平清団長(初代監督=写真左)。現在は職場で要職にある天井監督に代わって、平日練習の前半の指導を一手に担っている 100%ではないけど、常磐の指導陣は大半がOBで私もその一人。要するに、緻密な野球をみんな経験してきているんです。だから、いつ何をどうすればいいのか、ということをいちいち確認しなくても、最初から理解と共有ができている。常磐の伝統と組織力も、そこがベースになっているのだと自負しています。 ですから、全国でどこがライバルだとか、小名浜さんに負けたくないとか、そういう意識は実はそれほどでもないんです。何を措いても、常磐は強くあらねばいけない。『常に強くあれ!』というのが常磐球児のモットーであり、常磐を強くしたいがために、練習でも大会でもOBたちがどんどん集結してくれる。それぞれ社会に出て仕事をしながらでも、時間をつくって来てくれるんです。 全日本学童大会最多出場の理由は何ですか? こういう質問を受けることがありますが、以上が答えです。それ以外も以上もありません。礎を築かれた大平団長が、50歳で自ら初代監督を退かれて私にバトンタッチされました。私にはまだ果たすべきことも残されているので頑張りますが、いずれは後進のOBに道を譲ることになる。つまり、常磐の繁栄は監督一代限りではなくて、100年経ってもきっと続いているのです。これがOBたちの誇りでもあります。 小名浜の小和口さんと、福島の学童野球を引っ張っていきたい。こういう気持ちはずっと前からあって、現にそうしてきているつもりですが、あきらめてしまう指導者が多いなというのが実感です。遠慮というのか、交流の輪などにも声を掛けてもらえなかったり。敷居をそんなに高くしているつもりもありませんので、もっとどんどん食い込んできてほしいですね。 若き日からの同志...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。『監督リレートーク』は4人目の登場です。全国スポーツ少年団軟式野球交流大会で3度V。満75歳の小名浜少年野球教室・小和口有久監督は、同じ福島県いわき市の強烈なライバルに敬意と謝意を表しつつ、「ともに福島を盛り上げましょう! アンタが中心にいねかったら、みんな育っていかねぇから」と、温かみのある岩城弁でメッセージを送ってくれました。 こわぐち・ありひさ●1948年、福島県生まれ。小名浜一中で軟式野球部、勿来工高で硬式野球部。社会人・小名浜クラブまで遊撃手としてプレーした。引退後は社会人・堺化学工業クラブの監督を経て、94年に小名浜少年野球教室の指揮官に就任。29年の学童指導歴の中で、全日本学童は9回出場(8強3回)、全国スポ少交流は昨夏も含めて8回出場して95年からの2連覇と2004年の計3回の優勝を誇る。教え子からは小松聖(オリックススカウト)、西巻賢二(DeNA)、古長拓(元オリックス)と3人のプロ選手が生まれている [福島・小名浜少年野球教室] 小和口有久 ⇩ ⇩ 天井正之 [福島・常磐軟式野球スポーツ少年団] あまい・まさゆき●1974年、福島県生まれ。常磐軟式野球スポーツ少年団で野球を始め、6年時に四番・捕手で全国スポ少年交流に2回戦まで進出。湯本一中で四番・投手、湯本高でも看板打者で3年夏に県準優勝。中大まで硬式野球を続け、卒業後に地元・いわき市で消防職員に。同時に古巣・常磐でコーチとなり、2000年から監督を務めて02年と05年に全日本学童準優勝、07年は全国スポ少交流で優勝。09年から顧問、15年に指揮官に復帰。監督として全国2大大会通算14回出場、優勝1回、準優勝2回、3位が1回 私も始まりは父親監督です。社会人まで野球をやっていたこともあって、小名浜少年野球教室の鈴木良成代表から監督をずっと依頼されていたの。それを初めて引き受けたのが、自分の息子が6年生のとき(1994年)。 でも最初は弱かったねぇ。いわき市の大会で常磐(軟式野球スポーツ少年団※全日本学童の最多出場記録22回)さんに0対18くらいのボロ負け。その次は0対9、その次が0対7という感じで、少しずつ差を縮めていって。全日本学童予選の県大会の準決勝で、また常磐さんと当たったんです。このときには延長まで持っていって、1対2で負けたのかな。それで、あれ、オレも(監督)できんのかなって。 その次の年(95年)には富山県であったスポ少の全国大会(全国スポ少交流)に行って優勝(翌年に連覇)。それでああ、オレもできんだなっていう感じで、それからずっとやってきてます。 過去3度制している全国スポ少交流大会に2022年、10年ぶり9回目の出場。準々決勝で敗退も、逆転に次ぐ逆転の大激戦を演じた こんなに30年近くも続いて、こういう今があるなんて、想像でぎなかったよね。おかげさまで大きな病気もせず、足が少し悪かったのも手術して治って。体が丈夫だったから続いてきたのかもわかんねぇけど、本当に大変なときもありましたよ。もう年中、野球やってっから、家内に怒られたりしてね。 土日祝日は野球。平日も朝8時に会社に行って16時半まで働いて、帰ってきたら夜の8時半まで子供たちと練習して、それからまた会社に行って…。そういう生活を20何年もやってきたから。そういうサイクルになってたから、ここ(活動拠点の矢田川グラウンド)に来ないと逆に気持ち悪いっていうのか。ただ、家内は大変だよぉ。だから、家族同士で理解もねかったら、こんなに長くはできないよね、絶対。 OBの中学生に激怒 それとね、やっぱり子供がね、子供が好きだからだね、うん。大好きなんで。でねかったら、こんなに続かないよね。この前も、中学生になった教え子たちに本当に怒ったんです。 すぐ隣の球場で中学軟式野球部が試合をするらしくて、一方のチームが「(練習)場所を貸してくれませんか」と来たんですよ。ところが、もう一方のチームはぜんぜん言ってこないで勝手に始めて。だから私は頭にきてよ、怒ったんです。 「オメェたちさ、オレに『借りる』と言ったが? 一言あってもいいんじゃねぇが? そんなんだら野球なんてやめちまえ! そんな礼儀もわかんねぇだら野球どころでねぇから」って。「オメェたちに教える側も悪いんだ!」って言ったらさ、その野球部の監督が私の教え子(小名浜OB)で、選手も2年前まで小名浜でやっていた子たちが中心。「じゃあ、オメェたちを教えてきたオレが一番悪いんだな!」って(笑)。 今では笑い話ですけどね、あんときは本当に怒ったね、頭から。子供が可愛くねがったら何も関与しないし、あんなに怒んねぇなと思いますよ。 福島では「打撃の小名浜」とも呼ばれる。遊撃手として社会人までプレーした小和口監督の指導は、シンプルで小学生に理解・習得されやすい(写真は2012年) このコーナーで私を紹介してくれた北名古屋ドリームス(愛知)の岡秀信監督とは、不思議と馬が合うというのかなぁ。出会ったときから、お喋りがしやすい人でしたね。 震災翌年に感激の再会 スポ少の全国大会が北海道の札幌で固定開催(2006年から8年間)されていたときで、2009年の開催前日に新千歳空港で会ったのが初めて。そんときの岡監督がすっごく気さくだったの。私は初対面の人とはそんなにお喋りできねぇんだけど、岡監督は何だかお喋りしやすくて、大会中もずっと仲良くさせてもらって。その中で、岡監督は進退を悩んでいる、という話も聞きました。この大会はウチは3位で、北名古屋とやったのが2日目の準々決勝。結果は7対4だったかな、ウチが勝たせてもらって。 あんときの北名古屋は、和やかにやってたよね。ベンチもそんなにガツガツといくような雰囲気もねかったし、負けてもサッパリしてたよね。でも子供たちは野球をしっかりと教えてもらってるなという。何ていうのかな、岡監督の人柄でやってるみたいな感じで、本当に優しくてね、子供らにも。それで「こういう野球してったら、また全国来れっから!」と試合後に話したんです。 それで3年後(2012年の全国スポ少交流)に、また札幌で再会。私もうれしかったねぇ。また出て来てっからさ、北名古屋がね。岡監督に感謝の気持ちもたくさんあったからね。 北名古屋・岡監督と再会した2012年の全国スポ少交流は4強まで進出した...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。滋賀・多賀少年野球クラブの辻正人監督からバトンを受けたジェントルな智将・岡秀信監督(愛知・北名古屋ドリームス)には、過去の全国大会で転機となる一語を与えてくれた名将が東北にいるそうです。全国舞台での再会を誓いつつ、「言い訳ばかりの昨今の指導者たちに喝を入れてほしい!」と熱いメッセージが送られました。 おか・ひでのぶ●1969年、愛知県生まれ。小3から九之坪ビクトリーズ(前身)で野球を始め、主に投手。千秋中の軟式野球部から東海屈指の進学校・滝高へ進み、高3夏は背番号1で県3回戦進出。社会人軟式・大森石油でもプレーした。長男が在籍した鴨田リバース(前身)で2000年から指導者に。前身の2チームを含む3チーム合併で06年誕生の北名古屋ドリームスでも指導を続け、09年に6年生チームを全国スポ少交流8強へ導く。組織改編した13年からトップチーム監督で、21年に全日本学童準Vなど夏の全国での采配は計6回 [愛知・北名古屋ドリームス] 岡 秀信 ⇩ ⇩ 小和口有久 [福島・小名浜少年野球教室] こわぐち・ありひさ●1948年、福島県生まれ。小名浜一中で軟式野球部、勿来工高で硬式野球部。社会人・小名浜クラブまで遊撃手としてプレーした。引退後は社会人・堺化学工業クラブの監督を経て、94年に小名浜少年野球教室の指揮官に就任。29年の学童指導歴の中で、全日本学童は9回出場(8強3回)、全国スポ少交流は昨夏も含めて8回出場して95年からの2連覇と2004年の計3回の優勝を誇る。教え子からは小松聖(オリックススカウト)、西巻賢二(DeNA)、古長拓(元オリックス)と3人のプロ選手が生まれている 模倣より打破の思考 皆様、初めまして。多賀少年野球クラブ(滋賀)の辻監督が言うところの「一発屋」の一人が私です(笑)。 辻さんとの出会いは2011年の秋でした。今のように情報があふれていませんでしたので「多賀が強い」という以上は何も知らず、共通の知人を介して新チームの強化大会に参加させてもらったのが始まりです。 初めて見た多賀というチームは、小さい子ばかりでバットを引きずっているような感じ。ところが、野球を始めてみたら抜群に巧い。投手はインコースに緩いボールばかり投げてきて、ウチはチャンスはつくるけど点がなかなか入らない。けん制とかピックオフでランナーが刺されたり、打球も良い当たりなのに捕られたり。多賀は逆にチャンスは少ないのに確実に得点する感じで、スコアは確か2対3でウチが負けました。 北名古屋ドリームスは4大会連続4回目の出場となった2021年の全日本学童大会で準優勝。左から岡監督、池田号コーチ、杉本憲彦コーチ 多賀のような野球を目の当たりにしたのは初めてで、「えっ!?」というのが何度も。ただ私の場合は腹が立つより、興味がわきましたね。それからは、何度も遠征して試合をさせてもらっています。当初は勝敗も采配も度返しで、私は多賀の選手たちの動きを追うと同時に辻さんのベンチからの指示に耳を傾けていました。 ただし、方法論を辻さんから直接に聞いたことは一度もありません。偉大なカリスマだからではなく、私は人に教えを乞うタイプではないんです。カッコよく言えば「見て盗む」タイプ。実際、多賀の野球をコピーしているようなチームも少なくありませんよね。でも、マネをするという発想は私にはなくて、どうすれば、ああいう多賀のややこしい野球に勝てるだろうと、ひたすらに考えていく。それには、まずは敵をよく知る、よく見ることから始まる、というわけです。 「投資」から本気と活気 辻さんとは初対面の翌年、2012年に札幌で開催されたスポーツ少年団の全国大会で再会して、より親しくなれました。監督の親睦会もあって、優勝することになるJBC玉城(三重)の高口(一彦)さんとか、東16丁目フリッパーズ(北海道)の笹谷(武志)さんとか、全国区の方々とも知り合うことができました。 そして翌2013年度から、私は北名古屋ドリームスのトップチーム(5・6年生)の監督に定着。それまでは私を含む3人の指導者が順番で、4年生チームから繰り上がって3年目に監督になるシステムでした。でも、この3年サイクルでは、せっかく始まった全国区のチームとの交流も途切れてしまうし、全国舞台までの私の経験も還元しにくい。これはチームに不利益だろうと考えて、代表に直談判したのでした。 ところが、改革に反対はつきものですよね。体制刷新で去られる指導者も選手も複数いて、「揉めごとが多い」とか「人が減っている」などの噂も広まり…。一時は選手が全学年で15人くらいに。なぜ、選手が集まらないのか。残ったスタッフたちとも話し合い、こういう結論にいたりました。 『チームに魅力がないから!』 魅力とは何か、魅力を得るにはどうすればいいのか――。熟考の末に私が出した答えが『投資』でした。そして打撃用マシンを4台購入。すべて自腹でしたが、これで完全にスイッチが入りましたし、本気でないと人には伝わらないのだ、ということを私は悟りました。 「打てるようになると野球が楽しくなる」(岡監督)。スローガンに本気で取り組んで組織は徐々に大きく 2つめの投資は人、指導者です。中でも大ヒットが、私の長男・将志(現在は中学部の監督)をジュニアチーム(4年生以下)の監督にしたことでした。当時の長男は大学野球を引退したばかりで時間もあり、若さも魅力だったのでしょう、子供が増え始めたのです。 そして人が人を呼ぶんですね。環境を整えた上で『打って、打って、打ちまくれ!』というスローガンを本気で打ち出していくと、一気に組織が大きくなりました。またそこで満足せず、新たにスタートしたのが『幼児野球』。今はトップの池田号コーチが、園児だった下の息子を練習に加えたのが始まりです。 就学前の幼児の需要。これが意外とあるものなんです。私は実際に、平日夕方に近所のスポーツ教室なども見学して確かめました。教えるのも簡単ではありませんが、効果は確実にあります。ウチが2021年の全日本学童で準優勝したときのメンバーのうち、6人が『幼児野球』の経験者で、三番・遊撃の池田世宇(現・中等部2年)が池田コーチの次男、つまりきっかけとなった子でした。 2年生以下のキッズは、母親も参加のティーボールで野球の楽しさや初歩を覚えていく...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。2022年日本一の倉知幸生監督(石川・中条ブルーインパルス)からスタートした『監督リレートーク』は、バトンを受けた辻正人監督(滋賀・多賀少年野球クラブ)の登場です。今やメディアからも引っ張りだこの“カリスマ指揮官”は、ともにレガシーを遺さんと、交流して10年以上になる全国区のジェントルな智将へ熱いメッセージを送ってくれました。 つじ・まさと●1968年、滋賀県生まれ。近大卒。多賀中の軟式野球部、近江高の硬式野球部で三塁手。20歳で多賀少年野球クラブを結成して現在も監督。チームは2000年代から全国大会の常連となり、16年に全国スポ少交流を初制覇。「卒スポ根」を標ぼう後、全日本学童を18年から2連覇。常識も覆す合理的な指導育成法を複数のメディアでも発信、「カリスマ監督」とも呼ばれる。夏の全国大会での采配は計18回で優勝3回、準優勝2回。JSPO公認軟式野球コーチ3 [滋賀・多賀少年野球クラブ] 辻 正人 ⇩ ⇩ 岡 秀信 [愛知・北名古屋ドリームス] おか・ひでのぶ●1969年、愛知県生まれ。小3から九之坪ビクトリーズ(前身)で野球を始め、主に投手。千秋中の軟式野球部から東海屈指の進学校・滝高へ進み、高3夏は背番号1で県3回戦進出。社会人軟式・大森石油でもプレーした。長男が在籍した鴨田リバース(前身)で2000年から指導者に。前身の2チームを含む3チーム合併で06年誕生の北名古屋ドリームスでも指導を続け、09年に6年生チームを全国スポ少交流8強へ導く。組織改編した13年からトップチーム監督で、21年に全日本学童準Vなど夏の全国での采配は計6回 進化に終わりなし その人といつ、どこでどう出会ってどういう話をしたのか。正直、私は答えられないことのほうが多いです。失礼やなとは思いますけど、仕方がないんです。何しろ、毎週末のように新しい出会いがありますので。 練習試合の対戦の申し込みから見学・視察の問い合わせ、面識ある指導者からの悩み相談まで、電話が鳴らない日がないほど。こういう状況が少なくとも10年以上は続いている上に、今では多賀少年野球クラブ(通称「多賀」)の選手が100人以上になっています。 ですから最近は、多賀町(滋賀県)まで足を運んでくれた人に、たいしたお構いもできないケースが増えています。自分のチームの人々を幸せにできない人間が、チーム外にするアドバイスなんて何の説得力もありません。最優先は多賀の選手であり、保護者。もちろん、外部から見学や視察がある旨は、チームの全員で共有するようにしているので、「自由にグラウンドに入って、何かあれば指導者にどんどん質問してください」と事前にお伝えするようにしています。 最も大事な野球の入り口、未就学児から低学年の入門者へのレクチャーだけは私が専任。あとの練習は、効率よく回って適切に成果を得られるようにコーチ陣を配して任せます。コーチは選手の父親ではなく、全員が多賀の理想とノウハウを理解しており、変化(進化)を止めない私についてきてくれています。 5大会連続15回目の出場となった昨夏の全日本学童は、能力を発揮し切れずに2回戦敗退。これを踏まえてまた、新たな取り組みをスタートしている 歴代でも随一かもしれない潜在能力を持て余したまま、2回戦で敗退した昨夏の全日本学童大会を受けて、方針をまた改めました。真夏の連戦となる大舞台でパフォーマンスを発揮し続けるための、「体力強化」が大テーマ。練習の時間を延ばすとか、やみくもに数を課すとか、そういう安直な取り組みではありません。 従来通りの時短練習(平日2回は自由参加、週末は午後から半日)で野球脳とスキルを高めつつ、同時に持久力も獲得していく。詳しい内容は『令和の根性主義』という見出しで記事にしてもらっている、会員制のWebサイト(フルカウント)があるので、ここでは割愛させてもらいます。 「選手主体」をより広く! さて、この「リレートーク」で私を紹介してくれた、中条ブルーインパルスの倉知監督。出会いのことはさっぱり、わからん(笑)。というのは冗談で、当初は腹に一物あるなという監督でしたね。 こちらに遠征に来てくれたのが始まりで、過去の試合結果をたどってみると2016年の12月半ば。多賀が初めて全国優勝(スポ少交流)した年で、倉知監督もその夏にもうひとつの全国大会(全日本学童)に出ていて、そこそこ以上の自信を持っていたようです。それでよくあるパターンですが、新チームの腕試しと多賀の様子見、みたいな感じで来はったんやと思います。 初めて日本一となった2016年。地元・滋賀開催の全国スポーツ少年団交流大会を制してバンザイ&ガッツポーズ(写真上)。閉会式後は指導陣や保護者らの手で夏空に舞った(同下) 練習試合は結果として勝つことはあっても、勝利だけを求めてはいないし、より具体的で大事なテーマを全体や個々に与えて臨むのが大半です。倉知監督の中条には初対戦で負けて(3対7)、年が明けてからの再戦(2月)は私からお願いしてガチで勝負させてもらったのを覚えています(6対5で勝利)。 その再戦のころには、私は「卒・スポ根」を宣言して、とにかく選手にストレスを与えない、という指導へ傾倒していきました(結果、全日本学童で2連覇)。倉知監督はその後も、定期的に遠征に来てくれたので、私と多賀が激変していく過程もよく知っていると思います。 一方で、中条の倉知監督は下級生が頭打ちなど悩める指導者に。2018年の12月だったようですが、遠征してきたその夜から翌朝まで、アルコールを口にしながら話したのを覚えています。その場に一緒にいた、雑誌の元編集者は当時の音声データも保存しているそうで、酔いが進んだ私は倉知監督に対して「オレから何かを感じたんなら、お前も変われや!」などと、上から目線で繰り返したそうです。まったく記憶にありませんが。 倉知監督はその後、実際に変わっていきました。監督の自分が変わらんと、何も好転せえへん! そういう覚悟もあったんやと思います。怒声とか威嚇で選手をロボットのように操縦するのではなく、野球の本質を教え込みながら選手に主体性を持たせて任せていく。180度に近い自身の改革が、昨夏の全国制覇に結びついたんやと思いますし、楽しくて強くて考える野球で勝てる! ということを証明してくれたと思います。...
【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来...
【学童監督リレートーク】 “あるべき今と未...
あるべき今と、これからの学童野球界――。こういう視点も持ちながらフィールドに立つ背番号30番が、リスペクトや信頼を込めて他チームの30番へとメッセージを送ります。題して『学童野球監督リレートーク』。今と未来を明るく照らす“輪”は、2022年夏に日本一に輝いた中条ブルーインパルス(石川)の倉知幸生監督から始まります。 くらち・こうせい●1972年生まれ、石川県生まれ。津幡中の軟式野球部で一番・三塁。津幡高で一番・遊撃、県選抜で二塁手に。社会人軟式の佐川急便北陸支社で5年間プレーして全国準Vも経験。引退後の2008年、小4の長男と中条ブルーインパルスに入り、コーチを経て10年から監督に。16年、17年に続く3度目の全日本学童出場となった22年に初優勝。次男はNOL/石川で、三男は遊学館高でプレー、昨夏Vに貢献した服部成は甥にあたる 倉知幸生[石川・中条ブルーインパルス] ↓ 辻 正人[滋賀・多賀少年野球クラブ] つじ・まさと●1968年、滋賀県生まれ。近大卒。多賀中の軟式野球部、近江高の硬式野球部で三塁手。20歳で多賀少年野球クラブを結成して現在も監督。チームは2000年代から全国大会の常連となり、16年に全国スポ少交流を初制覇。「卒スポ根」を標ぼう後、全日本学童を18年から2連覇。常識も覆す合理的な指導育成法を複数のメディアでも発信、「カリスマ監督」とも呼ばれる。JSPO公認軟式野球コーチ3 3度目の正直で日本一に 昨年夏の全国制覇(全日本学童大会)は、子供たちのおかげです。彼らがホントによく頑張ってくれました。僕自身は特にそんなに何もせんと、でも過去の教訓は生きたと思います。 監督として全国大会は3度目で、過去2回は同じ失敗を繰り返していました。チームを何とか勝たせてやらんな、と自分がハイテンションになり過ぎて、大きい声も出てしまうし、試合中も怒り口調で選手を問い詰めたり。そのピリピリ感のようなものが子供たちに伝染して、いつもの力を出し切れんと終わってしまいました(2016年は2回戦、翌17年は1回戦敗退)。 2022年8月14日、全日本学童大会決勝で長曽根ストロングス(大阪)を3対0で破り、初優勝。V戦士たちの手で駒澤オリンピック公園硬式野球場の夏空に舞った 3度目の正直を期した昨年は、大会への入り方や試合への入り方に気を配りました。まずは指導陣も選手も、全員が落ち着いてバタバタせんように。試合中の僕はガマン、ガマンで子供たちがいかに楽しんでプレーできるかを考えて、声掛けもしていました。野球は失敗するスポーツ、プレーするのは小学生ですからね。結果、キャプテンの服部成(3回戦で完全試合も達成)をはじめ、子供たちは全国舞台の中でさらに成長してくれたと思います。 ノーサイン野球とは 中条ブルーインパルスで実践する「ノーサイン野球」は、選手同士で状況を読みながらサインを出し合い、試合を組み立てていくものです。高学年の公式戦でこれを実現するために、選手は下級生のうちから実戦を経験しながら、野球の本質を学んでいきます。 練習試合ではワンプレーや一打席ごとに、選手と監督とで振り返りを重ねて、戦術の共通理解を高めていきます。同じような状況が再びあったときには、どういう選択肢があって、自分ならどうすればいいのか。このあたりが明確になるほど、選手は自主的に課題に取り組み、試合中はプレーで絡む仲間のことも考えた判断もできるようになっていきます。やるべきことに集中するので、緊張やネガティブな考えなどから固くなるようなことはないはずです。 野球の本質を学びながら実戦を重ねてきた選手たちは、自分たちでサインを出し合いながら試合を組み立てていく 僕は選手たちを、大人の命じるままに動くだけのロボットに育てたいわけではありません。彼らには主体的に野球をしてほしいし、子供ならではの感性が好プレーを生むケースもあります。ともあれ、そういうノーサイン野球も勝つからこそ、指導者も選手も楽しいのだと思います。「野球ごっこ」ではなくて、「勝つ」ということを目的とした選手主体の野球、それが中条のスタイルです。...