【学童監督リレートーク】“あるべき今と未来へ”vol.5

あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。「監督リレートーク」は5人目の登場です。全日本学童大会の最多出場記録を今夏で23回へと更新を決めたばかりの福島・常磐軟式野球スポーツ少年団の天井正之監督。年齢も経歴も監督キャリアも類似している茨城県の同志へ「どちらが先に日本一になりますか!? 新年会も復活させましょう!」と、親愛も込めたメッセージを送ってくれました。
(取材&構成/大久保克哉)
あまい・まさゆき●1974年、福島県生まれ。常磐軟式野球スポーツで野球を始め、6年時に四番・捕手で全国スポ少年交流に2回戦まで進出。湯本一中で四番・投手、湯本高でも看板打者で3年夏に県準優勝。中大まで硬式野球を続け、卒業後に地元・いわき市で消防職員に。同時に古巣・常磐でコーチとなり、2000年から監督を務めて02年と05年に全日本学童準優勝、07年は全国スポ少交流で優勝。09年から顧問、15年に指揮官に復帰。監督として全国2大大会通算14回出場、優勝1回、準優勝2回、3位が1回。今夏の全日本学童出場(15回目)も決めている
[福島・常磐軟式野球スポーツ少年団]
天井正之
⇩ ⇩
吉田祐司
[茨城・茎崎ファイターズ]
よしだ・ゆうじ●1973年、茨城県生まれ。茎崎ファイターズで野球を始め、つくば市立高崎中で軟式野球部。竜ヶ崎一高で2年夏に甲子園出場(2回戦)、主将を務めた3年夏は四番・三塁で甲子園3回戦進出、松井秀喜を擁する石川・星稜高に3対4で惜敗。福井工大で大学選手権4回、神宮大会2回出場。96年に茎崎ファイターズのコーチとなり、99年から監督に。2001年初出場の全日本学童は通算9回出場、19年に準優勝、3位が3回。2015年全国スポ少交流2回戦進出。卒団生の次男・慶剛(千葉・専大松戸高3年)が今春の甲子園で本塁打も放っている
おかげさまで、今年の夏の全日本学童大会出場を決めることができました(2年連続23回目)。今年に限ったことではありませんが、伝統と組織力の勝利だと思っています。
「負けたくねぇ」執念
地区予選(磐南)の決勝では、同じいわき市の小名浜(少年野球教室)さんに勝たせていただきましたけど、1点差(2対1)でしたし、小名浜に勝たねぇと全国に出らんねぇ、というのも毎年のこと。福島大会の決勝でまた対戦する組み合わせでしたが、今年は違う相手との決勝でした(小名浜は準決勝で敗退)。
昨夏の全日本学童1回戦は、大会初導入のナイトゲームに。大会前のコロナ感染などでベストメンバーで戦えずに敗退した
私が常磐でプレーしていたときにはもう、小名浜さんを強く意識していましたね。今では全国出場回数はウチのほうが多いですけど、小名浜さんのほうが歴史が古くて全国出場も先。常磐の全国初出場は私が6年生のとき(1986年全国スポ少交流)で、今でも常磐を支え続けてくれている大平清団長が、ばりばりの監督(初代)でした。このあたりからライバル関係も強くなってきたんだと思います。
そして常磐が何年も続けて全国出場している時期に、小名浜の監督を引き受けられた(1994年)のが小和口さん(有久監督)。私をこのコーナーに紹介してくれた監督ですが、就任当初はプレッシャーもあったり、何かとたいへんだったと思います。
小和口さんの勝負に対するどん欲さは、すごいものがある。どっから、あんだけ湧いてくんの? というくらい。聞いた話ですけど、平日の朝早くから練習することもあるそうです。これまでに数えきれないほど、公式戦で戦ってきてますけど、絶対に負けたくねぇという執念をいつも感じますね。そこは私も同じですけど。
創立40年目となる今年も、平日のナイター練習(下)を経て2年連続23回目の全日本学童出場を決めている
小和口さんの記事にもありましたけど、今年はウチのほうが行けっかな(相手より上の手応えあり)というときに、意外と負けることがある。現状維持よりも、必死に追い抜こうとするほうが強くなるんだと思います。安心しちゃダメだということですよね。小和口さんとの対戦の中で、学ばせてもらったことのひとつです。
大記録更新中の背景
常磐の野球は、確かに緻密です。試合中の監督は、決断の連続です。ただ、緻密な野球はそれだけの時間と手間もかけることで成り立っていますし、どんな作戦も私の独断や根拠のない思いつきではないんです。試合中の瞬時の判断は私(監督)になりますけど、一緒のベンチにいる大平団長やコーチ陣とは常に情報を共有しながら、意見も交わしています。
常磐を創成期から支える大平清団長(初代監督=写真左)。現在は職場で要職にある天井監督に代わって、平日練習の前半の指導を一手に担っている
100%ではないけど、常磐の指導陣は大半がOBで私もその一人。要するに、緻密な野球をみんな経験してきているんです。だから、いつ何をどうすればいいのか、ということをいちいち確認しなくても、最初から理解と共有ができている。常磐の伝統と組織力も、そこがベースになっているのだと自負しています。
ですから、全国でどこがライバルだとか、小名浜さんに負けたくないとか、そういう意識は実はそれほどでもないんです。何を措いても、常磐は強くあらねばいけない。『常に強くあれ!』というのが常磐球児のモットーであり、常磐を強くしたいがために、練習でも大会でもOBたちがどんどん集結してくれる。それぞれ社会に出て仕事をしながらでも、時間をつくって来てくれるんです。
全日本学童大会最多出場の理由は何ですか? こういう質問を受けることがありますが、以上が答えです。それ以外も以上もありません。礎を築かれた大平団長が、50歳で自ら初代監督を退かれて私にバトンタッチされました。私にはまだ果たすべきことも残されているので頑張りますが、いずれは後進のOBに道を譲ることになる。つまり、常磐の繁栄は監督一代限りではなくて、100年経ってもきっと続いているのです。これがOBたちの誇りでもあります。
小名浜の小和口さんと、福島の学童野球を引っ張っていきたい。こういう気持ちはずっと前からあって、現にそうしてきているつもりですが、あきらめてしまう指導者が多いなというのが実感です。遠慮というのか、交流の輪などにも声を掛けてもらえなかったり。敷居をそんなに高くしているつもりもありませんので、もっとどんどん食い込んできてほしいですね。
若き日からの同志
さて、私から紹介したいのは、茎崎ファイターズ(茨城)の吉田祐司監督です。隣県にあって、チーム同士の交流は私たちが監督になる前から。指導陣にOBが多くて結束している、という点も似ています。
私は普段は吉田監督を「ユウジさん」と呼んでいます。真っすぐで、人柄がすごく良い。歳は私が1つ下で、お互いに大学まで野球を続けて、古巣の学童チームの監督になったのは祐司さんが1年早い。年齢もキャリアもほぼ同じで、一言で言えば「同志」みたいな間柄ですね。ともに苦しい時期もあって支え合うというか、深く話し込んだことも何度もありましたね。
特に監督になった当初は、ふたりともまだ若くて実績もないのに、選手の保護者が10歳も20歳も上という状況でしたから。問題や悩みも共通することが多かったんですよね。私は家庭の事情で5年間、顧問という形でチームに籍を残したまま監督を退いたことがありますが、この期間も「待っているから、早く戻りなよ」と声を掛け続けてくれたのが祐司さんでした。
2002年と05年には全日本学童準V、07年の全国スポ少交流で優勝。5年間のブランクを経て2015年に指揮官に復帰するや、その夏に全日本学童にも戻ってきた(写真)
「一緒に全国出よう!」「西(日本のチーム)に勝ちたいよね!」というのが、当初からのふたりの合言葉。実際に一緒に全国大会に出られたのは2回(2006年と17年の全日本学童)だけで、そこでの対戦はないです。私たちが監督になる前の時代に、1度だけ全国で対戦(1998年の全国スポ少交流)してウチが勝っている、という話だけは聞いて知っています。
ウチが全国で勝って心から喜んでくれるのが祐司さんで、私にとっても茎崎の勝利は自分のことのようにうれしい。2019年の茎崎の全国準優勝は全試合、ネット中継を見ながら応援して都度、祐司さんに連絡もさせてもらいました。
コロナ禍で途絶えましたけど、1月終わりの指導者同士の新年会も来年から復活したいと思っています。もう15年以上はやってましたかね。毎年、祐司さんがコーチ陣を引き連れて、ウチのいわきまで来てくれていたんです。
伝統の緻密な野球は、鍛え抜かれた守備と基本から備わっている走塁がベースになっている
練習試合は年間を通じて時期を問わず、都合が合えば何度でも。互いに手の内も知っているし、子供たち同士も仲良くなっていくんですけど、シガラミも何もなく、本気で真っ向から戦える最高の相手が茎崎さん。対戦するたびに、チームの立ち位置とか成長の度合いが確認できる。それはたぶん、祐司さんも同じだと思います。
祐司さんのすごいところは、どこかのマネとかコピーではなくて、茎崎独自の野球をつくっていったところですね。徹底的に打撃の強化からアプローチしていって、今の正攻法の野球ができていったのだと思います。
そんな祐司さんへ。どちらが監督を長くやるのかわかりませんが、どちらが先に日本一になりますか? もちろん、自分が先になりたいと思って頑張っていますが、今の飛ぶボールと飛ぶバットは祐司さんに味方しているような…。余計なお世話ですが、祐司さんはもう少し悪賢くというか、なりふり構わずにいけば辿り着けちゃうと思います。でも、わかっているのにそれをしない祐司さんは、どこまでも男の中の男です。