グラウンドに到着するや、選手、指導者、保護者の隔てなく笑顔で次々とコミュニケーション。試合中もニコニコしながら選手たちの背中を押し、プレー後の選手とは1対1の対話も頻繁に。こういう指揮官のチームには自ずと選手が集まり、結果も伴うようです。中学硬式チームの下部組織、「学童部」として産声をあげた栃木ボーイズは、わずか4年で栃木県のベスト4まで躍進してきました。今日の姿からは信じられませんが、指揮官は過去に厳しいスパルタ指導をされていたとか。65歳を過ぎてもなお、学びと自省を続ける監督が、リレートークの24番目に登場です。
(取材・構成=大久保克哉)
あがた・ひろし●1959年、栃木県栃木市生まれ。薗部町で3年生から野球を始める。主に二塁手で栃木市立西中から栃木商高へ進み、3年時は三塁手兼外野手で主将も務めた。卒業後は下都賀総合病院の軟式チームでもプレー。1994年、学童チームの国府南小に長男(当時小3)とともに入り、父親コーチを経て翌95年から監督に。次男の時代も含めて都合10年、指揮官を務めて全日本学童の県大会出場1回。2005年に栃木市初となる、中学硬式チームの「栃木ボーイズ」を立ち上げて代表に。同チームの選手の弟や妹を対象に「幼児野球教室」を始めたところ、人数が多く集まったことから2021年に「学童部」も立ち上げて監督に。現在は中学硬式と学童部を統括する代表も務める
安形弘志
⇩ ⇩
小林勇輝
[栃木・阿久津スポーツ]
こばやし・ゆうき●1985年、栃木県高根沢町生まれ。阿久津スポーツで、4年生から野球を始めて捕手一筋。後に千葉ロッテほかでプレーする岡田幸文らと夏の県大会で準優勝。阿久津中から作新学院高へ進み、2年秋から正捕手に。2年秋に県準優勝、3年春は県優勝、夏は県4回戦で敗退した。東京経済大へ進み、4年春まで首都大学リーグでプレー。4年生で阿久津スポーツに入部した長男が卒団後、2021年に監督となり、コロナ禍で唯一開催された県大会でベスト8入り。2024年秋の新人戦で22年ぶり3回目の優勝、関東大会まで導いた。128チーム参加の今夏の県大会は、ベスト4まで進出中
幼児野球で新たな悟り
子どもたちが能力の100%を公式戦で出し切るのは無理だとしても、その日のベストパフォーマンスを発揮するには、主体性や自立心がないと難しい。
その大元となる「自ら考える習慣」を養成するには、指導陣はのびのびとプレーできる環境をつくる必要があり、褒めるべきは褒め、認めるべきは認める。そして選手がわからないことは、積極的に質問してもらって練習で教えていく。そういうスタイルが、今の小学生には合っているのではないか。こう考えるようになったきっかけは、幼稚園生たちを指導したことでした。
私が代表となって立ち上げた中学硬式の「栃木ボーイズ」は20年の歴史がありますが、たまたま選手たちの弟や妹で未就学児が複数いる年があり、その幼子たちの面倒もみていたのが私。どうせなら「幼児教室」をやってみようと募集したところ、数人が集まりました。その子たちが今、学童部(栃木ボーイズ・軟式)にいる3年生たち(=下写真)です。
野球の経験も知識も当然ゼロで、身体機能も言語能力も小学生に遠く及ばない。そんな幼子たちと毎回1時間、野球をやりながら学んだことや、初めてわかったことがたくさんありました。
どうせ何もわからないし、何もできないからと、大人が一方的に押し付けても、幼児の心はこちらに向きません。何より、楽しくないので、集中は続かないし、興味も損ないやすい。
そうならないために、どうすれば――毎回の試行錯誤は骨も折れましたが、楽しい時間でした。私自身が野球が大好きであり、その野球の楽しさを子どもたちに伝え、体感させてやることが、こんなにも大きな喜びになるのだということを知りました。
試合中に萎縮しているような選手は皆無。ベンチの雰囲気は常に前向きで明るい
「幼児教室」を発展させる形で、2021年に「学童部」を新設してからも、方向性は変わりませんでした。勝ちたいだけの大人が怒鳴ったり、一方的に命令する野球は、子どもにはちっとも楽しくない。「楽しい野球」をするために、みんなでやるべきことはきちっとやろうよ、というのが基本の指導スタンスです。
「やるべきこと」とは、集団行動に必要な挨拶やマナー、ルールを守るなど。野球においては自分が打つ・走る・捕る・投げるだけではなくて、得点やアウトを奪うために仲間と協力したり、声を掛け合って確認したり、失敗の痛手を和らげるためのバックアップやカバーリングであったり。
取材日も大人の怒号はまるで聞かれなかったが、道具類の片づけも整頓も選手だけで自ら。その必要性を個々に理解しているせいだろう
結局、実戦でプレーするのは選手であり、指導陣が直接に手助けできるわけではない。ということは、練習のときから、選手の一人ひとりが考えながらプレーや行動をすることが大切で、そういう習慣付けのサポートをすることが指導者の大事な役目のひとつである。これが私の持論です。
ホントに時間はかかるし、本音を言えばイライラすることも。もちろん、叱ることもありますが、後から必ず自分なりに省みるようにしています。さっき、叱った内容は教えていたことなのかどうか、と。教えてもいないことに対して叱っても意味がないし、子どもには理不尽でしかないので。
好結果にだけではなく、練習や確認をしてきたことのトライにも称賛がある
練習中は「今のはどうなの?」と選手に問い掛けて、答えが出るまでガマンして待つことも多いです。最初から正解を求めているのではなくて、子ども自身が考えてそれを言葉にして出すことが大切。そのアウトプットをまずは認めてやり、その上で足りていない野球知識があれば補足し、時には「こういう方法もあるよね」と、新たな道筋やヒントも与えてやる。
確かに根気もいることです。試合でミスをしたり、壁に当たっている選手に対して、指導者が正解を言うのは簡単です。でも、その場で「はいっ!」と返事をした選手が、実際はろくに理解できていないとか、何も身についていないことも多いと思います。要するに、何も伝わっていないという事態は絶対に避けたいと常々、考えています。
板の上に乗っての連続10球のティー打撃。バランス感と体の回転で打つ感覚の養成、トップの位置が自然に定まるなど目的と効果は複数。こうしたドリル練習も選手は夢中で盛り上がる
同じ志の見える“仲間”
「学童部」の1年目は選手が10人で、初めての対外試合は1対50という記録的な大敗でした。でも、楽しければいいし、自分からモノを考えられるようになればいいよ、と。それが今では、練習でも試合でも選手同士で教え合えるようになってきています。人に教えられるということは、自分で考えて理解できていればこそ。そういうものが、ようやく伝統になりつつあるようです。
結果もだんだんついてくるようになって、4年目の去年は、全日本学童大会の県予選でベスト8。今年はGasOneカップの県大会で、もうひとつ上のベスト4まで行きました。そういう進化の過渡期に、ウチの石塚丈雄コーチを介して「練習試合をお願いします!」と、申し込んできてくれたのが、小山市の間東キッズの監督に復帰されたばかりの小森さん(正幸監督)。このコーナーに私を紹介してくれた人です。
日々のウォームアップは、5・6年生(上)も4年生以下(下)も、指導者なしで黙々とこなせるまでになっている
監督に戻られたばかりで不安もあっただろうに、勇気をもって声を掛けてきてくれた。そして試合をしてみると、小森さんは終始、落ち着いていて子どもに対する態度も素晴らしい監督でした。野球においても引き出しが多くて勉強熱心。
勝敗とか年齢差とか、そういうものを抜きにして、子どもの指導者として同じ志や方向性が感じられる。そういう“仲間”と、新たにまた巡り合えたことが私はとてもうれしくて、試合後にこうお伝えしました。
「小森さんが今のままを続けてくれれば、子どもたちも親も幸せだと思うし、一緒にこれからも頑張ろうね!」
キャッチボールの前には、何種類かのドリルで基本を確認する
今年度限りで後進に道を譲られるという小森さんと、県大会で対戦することはついに叶いませんでした。でも、この8月の県大会(下野新聞社杯・128チーム参加)は、間東は3回戦まで、ウチは4回戦まで、それぞれ勝ち進むことができました。
「ボクらのころは、すごくおっかなかったのに、なんで今はそんなにニコニコしているんですか?」
昔の教え子から、そのように言われることがよくあります。そうなんです、中学硬式チームを設立するまでの私は、2人の息子もお世話になった国府南小という学童チームで監督を10年間。この時代は何の疑いもなく、スパルタ指導と押し付けの野球をしていました。
低学年はキャッチボールからコーチ陣の個人指導が入る(上)。試合前は外野ノックと並行して、ソフトボールのティー打撃で守備練習も兼ねる(下)など、場所や時間も有効活用
ところが、押し付け野球では県大会どころか、地元の栃木市内でも思うように勝てない。監督3年目、30代の駆け出しだった私は、小森さんのように勇気を振り絞り、栃木県を代表する名門チームに練習試合を申し込みました。
それが高根沢町で活動する、阿久津スポーツです。去年秋の県新人戦で久しぶり(22年ぶり)に優勝されましたが、県内では阿久津と言えば昔から名門中の名門。全日本学童とスポーツ少年団の両方の全国大会にも出場されている(2003年)。チームをそこまで強くされたのが綱川治彦監督(当時)で、80歳を超えられた現在も総監督として平日練習を担当されているそうです。
「子どもの送迎以外は帰ってもいい」と監督に言われている保護者たちだが、そのままグラウンドに残り、手伝いや見学をする姿が多数
初対戦はボロ負け。阿久津のエースは、後にプロ入りする岡田幸文選手(ロッテほか)で、ウチの打線は一番から、バットにボールがかすりもせずに6者連続三振。それこそ強烈なインパクトでした。
ところが、ギラギラしていた綱川さんが試合後は一変、若造の私に対してもニコニコされながら「また来いよ!」と。お言葉に甘えて、それからは年に何度かは試合をさせていただくようになりました。
サインプレーも当然あるが、選手たちは予測ができている。指揮官は気になったことがあれば、メモを取る
綱川さんの座右の銘は『謙虚で一生懸命』で、当時の口ぐせは「野球は守りだ!」と。子どもたちへの指導も非常に厳しい監督でしたが、指導者間では私のような外部の者にも親身にアドバイスをくださる人でした。
結局、阿久津には1回も勝てませんでしたが、最終的にはかなり良い勝負もさせていただくまでに。綱川さんは厳しいだけではなく、視野が広くてレギュラー選手だけではなく、下級生にまですべて目が行き届いている感じでした。1年限りで終わることが多い父親監督とは異なり、長い目で継続的に上を目指されていたのだと思います。
指導陣のコミュニケーションも密(上)。選手に任せるべきは、簡単な指示だけであとは静かに見守る姿も(下)
20年ぶりの再会と本気の戦い
そんな綱川さんと、再開したのは20年ぶり以上だったと思います。それが昨年の秋のこと。ウチの石塚コーチと、県の新人王になった阿久津を率いる小林勇輝監督との間に、共通の知人がいたこともあって、練習試合をさせていただくことに。そして私たちの栃木市まで来てくださって、総監督になられていた綱川さんは開口一番、「おお、安形、学童野球に戻ってきたんだな!」と。ずいぶんと優しい目になられたな、というのが私の第一印象でした。
試合では1点差の好勝負をさせていただきました。阿久津の選手たちは昔と比べて、のびのびとやっている雰囲気もありましたが、すごいなと感じたのは、守りの野球がしっかりと受け継がれていたこと。それもそのはずで、総監督の綱川さんをはじめとして、指導陣の多くが昔に見たことのある顔。つまり、OBたちが指導者になって後進を育てているんですね。
監督の小林さんは、昔のあの衝撃の6連続三振を喫したときに、岡田選手とバッテリーを組んでいたキャッチャー。指導者になって結果を出されても、昔の綱川さんと同じく謙虚で、野球のこと以外にウチの道具類の並べ方などを褒めていただいたり。綱川さんはまた、総監督だからと前面に出てくるようなことがなくて、小林監督たちに一任されている様子にも感心しました。
ウチの6年生にとっては最後の大会となった、8月の県大会。4回戦まで進出と先述しましたが、その最後の試合の相手が、奇しくも阿久津でした。結果は4対14の5回コールド負け。野球と試合運びのうまさ、負けられないという気持ちの面で、ウチは及びませんでした。
けれども、この大会の3回戦では、それまでに一度も勝てなかった相手に勝つことができました。2枚のエースのうち1人が1安打で完投。選手たちは自主的に考えたり、声を掛け合ったりしながら、最高のパフォーマンスで強敵撃破を成し遂げたのです。続く阿久津戦は思うようにいかず、敗れた後は選手たちは大泣きで、私も…。
エース右腕の岸大雅(上)が、夏の県大会3回戦で強敵を相手に1安打完投。卒団前の最後の大会で、集大成を飾った
それでも、6年生たちにはやり切った感があって、さわやかに学童野球を終えられたようです。私もとても感慨深いものがありました。選手が自分から考えて行動やプレーをするという、遠回りとガマンの指導が、ひとつの成果として示された気がしています。
そしてこの企画コーナーのバトンは、阿久津の小林さんに託したいと思います。小林さんがすごいのは、阿久津の伝統と総監督を大切にされながら、今の子どもたちに寄り添った指導をされていること。また指導陣の一枚岩も、小林さんによるところが大なのだと思います。
公式戦で本気の戦いをしてみて、阿久津というチームの強さ、素晴らしさを改めて感じました。このまま勝ち続けて、夏も栃木のチャンピオンになってください!(8月30日に準決勝、31日に決勝を予定)。
そうお伝えしたいです。