【2023注目の逸材】
加賀陽翔
かが・はると
【所属】東京・西田野球クラブ
【学年】6年
【ポジション】投手、一塁手
【主な打順】三番、五番
【投打】右投右打
【身長体重】152㎝36㎏
【好きなプロ野球選手】坂本勇人(巨人)
※2023年4月2日現在
動画でチェック➡投球2&打撃1
「プロ野球選手」という夢がこの春、さらに具体的になった。
「僕も日本を代表するピッチャーになって、あそこで投げてみたいです」
「あそこ」とは、世界最高峰の舞台、WBCだ。この2023年3月、14年ぶりに世界一に返り咲いた侍ジャパンの、全員一丸で盛り上げながら勝ち進む姿に、11歳の加賀陽翔は胸を躍らせたという。
「僕も、みんなで声を掛け合ってやる野球がとても楽しいです」
所属する西田野球クラブは、ちょうど創立50周年の大きな節目にある。2004年と06年には東京23区大会で優勝など、都大会常連の杉並区の老舗チームだ。23区大会の低学年の部では、2021年に8強まで進出。当時の4年生エースが、加賀だった。
球速は常時、110km/h前後。3年生からコーチ陣との二人三脚の努力で、現在の自然な形のスリークォーターに落ち着いたという
『昨日の自分に勝とう!そして今日より明日!』(山本修士監督)というスローガンを掲げる新チームは、山本真詩主将を中心に内外野の声掛けや個々の準備・対応力が際立っている。1月開幕の京葉首都圏江戸川大会はべスト8入り。加賀はこれにも投打で大きく貢献した。
長い手足を持て余すことなく、投げ込む速球は、コンスタントに110㎞/hあたり。随所でスローボールを交え、けん制もクイックも巧み。フィールディングやベースカバーもそつがない。そして進境著しいのが、マウンドさばきだ。
「正直、緊張したり、ちょっと悔しいとかいう時もありますけど、野球はチームプレーで成り立っているので、何かあっても切り替えて自分のピッチングをすることをいつも意識しています」
4月に入っての全国予選(区大会)では、これぞエースという内容の完投勝利もあった。不運なジャッジや味方にミスがあっても制球を乱さず(与四球1)。3点リードの最終回に2点を失い、なお二死三塁で迎えた三番打者に対しても、表情ひとつ変えることなく右腕を振って見逃し三振に。
「最後は自信を持って、思い切りストレートを投げられました」
肘肩とのケガと無縁。ひと際長いコンパスは、明るい未来を指し示すかのよう
周囲に聞けば、学力も優秀だという。黒縁のメガネにも増して、知性を裏付けるのが打席内での機微の目的を問うた際の答えだ。
「盗塁のサインでは捕手が投げにくくなるように、一番後ろに立ちます。追い込まれるまでは足を高く上げて全力で振って、追い込まれたら一番前(投手寄り)に立って、足をあまり上げないでクサい球も全部ミートするようにしています」
これらは人からの指示や教えではなく、自分で考えて実践しているという。先述の京葉首都圏大会では、左越えの特大の一発も放っている。
若いカウントなら捕手寄りに立って狙い球をフルスイング。写真は京葉首都圏大会での左越え本塁打(1月29日、水辺のスポーツガーデン)
サッカーから転向
特に投げることについては、指導歴25年の望月航二郎代表らコーチ陣からの手厚い指導を受けてきたという。
幼いころから両親とのボール遊びが好きだったという加賀は、3年生の途中まではサッカーに興じていた。西田野球クラブの監督(当時)の誘いから野球に転じた当初は、アンダースローに近い投げ方だったという。それでも非凡な球を投げることから投手となり、ヒジの位置を少しずつ上げながら現在のスリークォーターに。フォームの改善とともに制球力も上がり、4年生の春季大会は四球を連発して区決勝で涙も、秋の区決勝は完全試合に近い内容で完封勝利を挙げた。
リリース時に左右の肩と手を結ぶラインが一致するポジションにあるのが理想(肘肩に過度な負担が掛かりにくい)と一般的に言われている。加賀の現在のリリースもそこにあり、過去に肘肩を痛めたことはないという。
「今は自分に合った、しっくりくる形で投げられていると思います。これまでにコーチにたくさん教えていただきましたし、平日はお父さんにボールを受けてもらっているので感謝しています」
「上部大会出場(区大会優勝)」を目標とするチームは、内外野の声掛けも出色。2年前には23区大会低学年の部で8強まで進出している
都内の多くのチーム同様、西田野球クラブも平日練習がない。山本監督から「杉並No.1ピッチャーになってくれ!」と、背番号1を授かった加賀は期待にも応えるべく、地道な努力も欠かさない。
「23区大会とか上部大会出場をみんなで目標にしていますし、そのためにはチーム練習はもちろんですけど、個人でも平日にできることをコツコツとやっていくことが大事だと思います」
大きな夢を堂々と語るにふさわしい小学6年生が、ここにまた一人いた。
(大久保克哉)