【2025注目の逸材】
ふくま・こうたろう
福間煌汰郎
[福岡/6年]
かなだ
金田ジュニアクラブ
福岡ソフトバンクホークスジュニア
※プレー動画➡こちら

※投球動画は家族提供
【ポジション】投手、一塁手
【主な打順】一番
【投打】左投左打
【身長体重】158㎝53㎏
【好きなプロ野球選手】和田毅(元ソフトバンクほか)、周東佑京(ソフトバンク)
※2025年12月15日現在

写真㊤㊦は5年夏の全日本学童大会マクドナルド・トーナメント

3歳から父と特訓
運命に導かれながら自ら道を切り拓き、人の生き方までも変える。それほどの“一途な努力家”が、名門チームの最後のキャプテンというのも奇遇ではないのかもしれない。
全国大会(全日本学童マクドナルド・トーナメント)に出場すること2回。プロ選手も1人輩出し、夏のV腕など甲子園に出た卒団生は数知れない。そんな福岡県の名門、金田ジュニアクラブも少子化の波には抗えず、今年度限りで45年の歴史に幕を閉じる。

金田ジュニアの最後の高学年チーム。写真㊤の最後列左から3番目が福間。妹の心優(4年=写真㊦右)と弟の奨汰郎(2年=同左)は、新年度から合併した新チームへ

第1期生でもある嶌田英志監督と5年生以下の選手たちは、近隣の2チームと合併して誕生する新チーム(名称未定)で活動を続けるという。第45代の「ラストキャプテン」、福間煌汰郎は、来春から文武両道の中高一貫私立校へ進むべく、受験勉強と野球の二兎を全力で追う日々にある。
「目標の中学に入って高校まで野球をして、その後にプロ野球選手になります」
自主勉強を毎日欠かさない。その上で月曜日は身体のケアや自主練を行い、火曜と水曜は学習塾で学び、木曜と金曜は金田ジュニアで練習。そして週末は、福岡ソフトバンクホークスジュニア(以降、ホークスJr.)で年末のNPBトーナメントへ向けて、ライバルたちと切磋琢磨する。

いわゆる「ガス抜き」のない、無休の生活も4カ月となる。並の6年生なら早々につぶれているだろうが、福間にとってはタイトな日程もハードワークも今に始まったことではない。年季の入りがハンパないのは、父・昭二さんの回想でも明らかだ。
「ホークスJr.になるために、3歳の終わりからアカデミー(ホークス運営の通年スクール)に入れて、自主練も毎日やり過ぎなくらいまでさせてきました」
長女に続いて生を受けた福間は、就学前から父の“超”熱血指導を受けてきた。いや、「耐えてきた」のほうが適切かもしれない。以下、再び父の回想。
「小学校に入るか入らんか、それくらいの時期が一番厳しかったと思います。毎日、広いグラウンドで練習していたんですけど、キャッチボールは身体の幅に来たボールしかボクは捕らん。捕らんかったボールは、本人がどんなに泣き叫ぼうが、走って拾いにいかせて…」

小学校入学と同時に、金田ジュニアの門を叩いてきた日の福間を、嶌田監督はよく覚えている。ピカピカの1年坊が携えていたのは、目には見えない「覚悟」だったという。
「福間は入学前から、練習の見学に来てたんですよ。でも『中に入って一緒にやろう!』と、どんなに声を掛けても尻込み。それが1年生になったら、自分から中に入ってきた。お父さんとそういう約束もして、肚を決めていたんでしょうね」
萎えぬ情熱と向上心
3歳から特訓を重ねてきた福間が、技能で秀でていないわけがない。制球力がピカイチの左腕で足も速いことから、外野や一塁を守りながら、1年生から低学年の試合で登板した。3年生になると6年生と一緒にプレーして県大会のマウンドも経験。そんな左腕を4年生から学年キャプテンに指名した、嶌田監督は理由をこう語る。
「どんなに活躍しても、コツコツと真面目に取り組む。歴代でも稀なタイプで、ペラペラしゃべらないけど、周りがその姿を見てついていく感じがありました」

5年生からエースとなり、昨夏の全国大会に出場。右から2番目が福間
人見知りで無口は生来のもの。でも、それが父には歯がゆくて、逆鱗に触れることもあったという。以下、再び昭二さんの回想。
「試合中のミスをその時々で修正したかったので、帰りの車で『あの失敗はなぜ?』と尋ねても、まったく答えられないのでイライラしてきて…。あとは声と元気がぜんぜん足りんかったので、厳しく叱ってましたね。今思うと、可哀想やった。ただ、家に帰ったら絶対に引きずらない。そこは意識してました」
年端もいかぬ長男は、父のあまりの剣幕に心が折れかけたことも度々。口にはしなかったが、運命を恨んだ瞬間もあったのかもしれない。それでも、野球への情熱は失せるどころか、増すばかりだった。
「野球は1人じゃなくて、みんなで一緒にやるスポーツ。練習では厳しいこともありますけど、その分、試合は楽しくできる」

5年夏の全国大会は初戦敗退も、福間は2安打1打点をマーク

チームに入ったときから、好対照なタイプの超逸材が同級生にいたことも、向上心に拍車をかけてきた。低学年からバッテリーを組んできた右の大砲、石光奏都(=写真㊦右)だ。
この石光については「2025注目戦士㉒」(➡こちら)で紹介したばかりだが、福間-石光のコンビは5年夏に全国デビューし、それぞれに活躍した。ただし、マウンドで輝いたのは背番号1の福間ではなく、快速右腕の石光だった。

激しい戦いの末に全国初戦(2回戦)で散ったとき、福間は「自分も投げていたら…」と思わずにはいられなかったという。エース格で16年ぶりの全国出場に貢献したのは彼だった。しかし、そこで左ヒジが悲鳴をあげてしまったのだった。
診断の結果は「離断性骨軟骨炎」。俗に言う野球肘だった。夏の晴れ舞台を前にして、積年のオーバーユースが祟るとは何たる皮肉か。それでも自暴自棄にならなかったのは、50mを7秒4(6年時の体育で計測)で走る脚力と、どんな球も広角に打ち返す打撃という武器もあったからなのかもしれない。
5年夏、二番・一塁で全国デビューした背番号1は、好機で中前タイムリーなど2安打1打点。そんな福間を石光はこのように評している。「バッターでもピッチャーでも、すごく信頼できる。ここぞというところで打ってくれるし、ピッチングでは苦しい場面で抑えてくれる」。

試練に次ぐ試練の果て
6年生になると、福間-石光のコンビは県下ですっかり有名となっていたが、大目標だった今夏の全国出場はならず(県準決勝で敗退)。その後はともにホークスJr.入りが目標となり、そろってそれを叶えた。3歳から「9年越しの夢」を実現した福間父子の喜びは、察するに余りある。

ところが、至福も束の間。天はまたも左腕に試練を課した。ホークスJr.でのメディカルチェックの結果、ヒジに異常ありで「ノースロー調整」を厳命されてしまう。
筆者が取材へ訪れた10月下旬、福間はチーム練習でも半分は別メニューだった。キャッチボールの際は1人でベーラン、打撃練習時は右手一本でバットを持っての素振り。トス打撃は片手で行い、試合では三塁コーチに。
どれも懸命にこなす背番号10は、いつでも大きな声を発し、全体の士気を高めていたのも印象的だった(※動画参照)。


最速は108㎞。これは6月の全国予選時の球場表示だったという。
「何も気にせずに、思い切り腕を振ったのは、いつが最後?」
しばらく記憶を辿り、8月末のホークスJr.の三次選考だと答えた福間は、「気持ちが切れそうになったことも?」の問いには「ないです!」と即答してから続けた。
「ケガはスポーツをしている人にはあるものなので切り替えて。今、自分ができることをやっています。走ったりするのも、治ったときに自分の役に立つように全力で」

口下手と聞かされていた少年が、ここまで強い意思を自らの言葉で吐き、一方ではチームのために当たり前に声を枯らしている。人としてもここまで成長できたのは、かつての父の厳しさのおかげでもあるのではないか。水を向けると、福間は言った。
「お父さんはこれまでボクを支えてくれて、打てないときには打ち方を教えてくれたり、打たれたときには気持ちの保ち方を教えてくれたり。だから今でも野球が好きで、野球を続けられているのかなと思います」
これを伝え聞いた父は一瞬、言葉に詰まってからこう話した。
「自分も息子によって、変わったところがあります。とにかく真っすぐな子で、どんなに怒ってもずっとついてきてくれる。だからボクも『この子のために』と、職種も職場も変えて午後4時半には仕事が終わるように。そしたら一緒に練習できるので。中学から親は入り込めないし、ボクも今しかやれないことをやりたいと思って。今しかやれないのは練習を一生懸命に手伝うこと…」
嶌田監督より福間と石光へ「2人とも将来はプロになる可能性も十分。石光は今のままでいいし、福間は身体とともに球速もついてくるはず。タイプがぜんぜん違うけど、誰にでも応援されるような選手になってください」

11月の後半に、ホークスJr.からの「ノースロー指令」は解かれた。それからは対外試合でもプレーしているという。NPBトーナメントの開幕は12月26日。本番には間に合った、というより、彼自身が間に合わせたのだ。
「ファーストの守りではノーエラーで、バッティングでは塁に出て盗塁して、得点に絡めるような走塁をして。ピッチングでは1球1球に気持ちを込めていきたいです」
もう遠慮もガマンもいらない。福間よ、存分に腕を振れ!! 消えゆく金田ジュニアのため、敬愛する父のため、そして自分と未来のために。
(動画&写真&文=大久保克哉)
