こんにちは、新入社員の片岡安祐美です。
ここでは「安祐美's Eye」として、私、片岡が気になること、知りたいこと、感じたこと、そして、たま~に「片岡安祐美」のこと?などを、お話しさせていただければと思います。
第3回は自己紹介の続き、私、片岡の「野球人生スタート」のお話です。
野球を始めてもう30年! 自分でも驚きです。野球中心、野球に育ててもらった私の人生でした。
野球部に入りたい! そのために始めたのは…
「野球部に入りたい!」
私がそう両親に告げたのは小学校3年生の時。
故郷の熊本では当時、学校単位で野球部があり、私の通っていた小学校も4年生から入部することができました。
テレビで見た高校野球に憧れ、甲子園でプレーすることが夢になった私は、野球部に入る気満々! 担任の先生から「4年生から部活動が始まります、何部に入りたいか考えておいてくださいね!」と配られたプリントを手に帰宅し、自分の思いを両親に伝えました。
喜んでくれるかなと思っていた父は「野球はそんな甘いもんじゃない」 と反対。
母なんて「男の子を産んだ覚えはありません!」 と大反対。
ですが、幼少期より負けず嫌いに育てられていた私は、一度言ったらきかない性格に。諦める、ではなく、どうやって両親を説得しようかな? と考えました。
毎日、学校から帰ると近所をランニング。
父が仕事から帰ってきそうなタイミングで、玄関にあった父のバットで素振り。
嫌いだったプロ野球を父と一緒に見て、ルールを覚えるために質問攻め。
そんな日々を過ごしているうちに、父は「安祐美、本気なのか? 野球は男の世界だぞ? 厳しいぞ?」 と私に言いました。「甲子園に行きたい、そのためには今から野球しなきゃいけないことはわかってる。だから野球部に入りたい」 と私。それを聞いた父は「女の子だからと特別扱いはしない。甘えないこと」「途中で投げ出さない」「やるからにはレギュラーをとる」 という3つを条件に、野球をやることを認めてくれました。
口もきいてくれないくらい大反対していた母も、「娘が本気でやりたいと言ってることを応援してあげるのが親の務めじゃないのかな」 という父の説得により、しぶしぶ許可してくれました。
今もあこがれの、地元の先輩!
片岡家での許可は下りたものの、野球部への入部はすんなりとはいきません。当時、私の通っていた小学校では、女子選手の前例がなかったのです。それでも、学校の先生方、教育委員会、PTAの方々、地域の方々のご理解により、「前代未聞ではありますが、野球部への入部を許可します」 とおっしゃっていただき、私の野球人生はスタートしました。
余談になりますが、熊本市では当時、2つの小学校で女子選手がいました。そのうちの1人が、今もとてもお世話になっている憧れの先輩、元プロゴルファーの古閑美保さんです。当時、お会いしたことはありませんでしたが、存在はもちろん知っていましたし、ゴールデンゴールズに入ってから、テレビのお仕事でご一緒させていただく機会があり、勇気を出してごあいさつし、思いのたけをぶつけたのでした。笑
いつの間にか「片岡塾」に

話を戻し、そこからは父と2人の練習が始まりました。父が仕事休みの時は小学校のグラウンドに行き、走り込みから始まり、投げ方、ボールの捕り方、打ち方と、朝7時から午後1時頃まで、徹底的に基本を叩き込まれました。自宅の庭には照明が取り付けられ、平日の夜は、その下で素振りです。その様子を、父と愛犬のゴールデンリトリバーが並んで座りじっと見ている、それが片岡家の日常でした。
野球に関して、父はとても厳しかったと思います。野球以外で怒られた記憶はあまりありませんが、野球で怒られたことは数えきれないほどです。
ただ、そんな厳しい父に対して、嫌だと思ったことはなく、「父の言うことを聞いていれば、うまくなれる」 と信じていました。その頃には、「レギュラーを取る!」 というのは私だけの目標ではなく、父にとっても同じで、父娘2人の目標になっていたと思います。
雨で練習ができないときは、野球ノートを開き「自分にとって野球とは?」 といったことを考えさせられたこともありました。厳しくはありましたが、父が本気で、私と向き合ってくれていることがうれしかったし、父に褒められることもうれしかった。あまり褒められた記憶はないけど…。笑
小学校時代、グローブは買ってもらったことがなかったな、全部おさがりでした。新しいグローブは硬くて使いこなせないだろうからと、父が会社の同僚(私の幼馴染の父)や、私の野球部の先輩にお願いして、譲ってもらったものを使っていました。
そうして取り組んでいた、父と2人での練習ですが、そのうちに1人、2人と「一緒に練習させて」とチームメートが集まるようになりました。多いときには紅白戦ができるほどの人数になることも。それはいつしか「片岡塾」と呼ばれるようになっていました。
集まってきた“塾生”はみんな、普段から野球をして遊んでいたような友達でもあります。片岡家は、父と母、私と2つ下の妹の4人家族でしたが、いつからか、私が不在のときにも塾生の誰かが家にいて、ご飯を食べていたり、高校野球をテレビ観戦していたり…。そんな不思議な様子も、なぜか日常の風景になっていました。
プロ野球のキャンプシーズンになると、レンタカーでマイクロバスを借りて、「片岡塾」のみんなと、宮崎県へジャイアンツのキャンプの見学に連れて行ってもらったこともありました。スタンドから練習を見学し、「プロ野球選手も自分たちと同じ練習している!」「こんなにたくさん練習するんだ!」と学びました。
代打の初打席でヒット! 喜びすぎて叱られた!

学校の野球部で最初にベンチに入ったのは、4年生の時でした。監督の隣で先輩たちの試合のスコアブックを付けることで野球を覚えることから始まりました。その一方で、毎日自分の納得のいくまで素振りすると決め、お風呂では握力を鍛えるためにと、湯船につかってグーパーを100回、お風呂上りはストレッチと、毎日欠かさず、自主トレをしていました。
実戦デビューは先輩たちの練習試合、代打出場でした。その試合で初ヒット。うれしすぎて舞い上がり、帰りに車のドアに手を挟み、父から「調子に乗るな」と怒られましたが…。
自分たちの代になると、副キャプテンになりました。一番サードでレギュラー。なぜサードだったのか、考えたことはありませんでしたが、今思うと、父は長嶋茂雄さんの大ファン。それでサードだったのかな?
試合会場では、対戦チームの男の子にちょっかい出されて頭をはたかれたり、「サードの女子狙え~」と言われたりすることは日常茶飯事。トイレに行けば、「男子トイレはあっちよ?」とよく言われたものです。笑
ですが、それがつらいということは一度もありませんでした。むしろ「見てろよ~!」と野球熱はさらに上がり、熱を出して学校休んでるのに、母の目を盗んで素振りして怒られたり。
グラウンドに立って、キャッチボールできることがうれしかった。サードのポジションにつくことがうれしかった。打席に立てることがうれしかった。
そこにチームの勝利がプラスされればなおうれしいし、ヒット打ったもんなら飛び上がるほどうれしかったな。
父との「初投げ」は新年の恒例行事!
印象深い思い出というと、6年生の時の“幻のホームラン”でしょうか。
学童野球最後の大会を終えた後の、招待試合でした。私は右中間に大きなあたりを打ったんですが、グラウンドの形状により、審判からはエンタイトル2ベースと判断。納得いくものではなかったのですが、審判の判断は絶対。仕方ないとセカンドベースまで戻りました。
結局、試合も負けてしまい、あーぁと落ち込んでいると、大会本部の方が来てくださり、「あれはホームランだったね! ナイスバッティングでした!」 とホームラン賞のソックスを渡してくださいました。とてもうれしかったです。
エラーしたり、打てなかったり。そんな経験も、数えきれないほどあります。そんなときは、グローブを枕元に置いて寝たり、ボールを握って寝たり、バットと一緒に寝ていたもんです、まぁ大抵、朝起きたらどこかにいってましたが。笑
「新年の初投げはお父さん」と決めていました。年が明けると山の上にあった父の母校である中学校までランニングをして、その中学校のグラウンドで父とキャッチボール。これがお正月の恒例行事となりました。
野球にどっぷりとハマり、勝ってうれしい、負けて悔しいを学んだ。それが私の小学生、学童野球時代でした。