市内でくずぶっていた無名のチームを、全国大会まで導いた栄光もありつつ、現在は「育む」をキーワードに選手主体の野球と時短活動を実践。一時は6人まで減った選手も数倍に持ち直し、県大会で上位進出など、実績のほうもまた右肩上がりの傾向に。悩ましい時代の模範にもなるだろう指揮官が、新潟県の西区にいました。そして次のバトンは、全国随一のホットな地域で奮闘する名将へ。交流の始まりはSNSだったそうです。
(取材・構成=大久保克哉)
よねやま・しんいち●1978年、埼玉県生まれ。就学前に新潟県柏崎市へ転居、小3からリトルリュウ高柳で野球を始める。高柳中の軟式野球部で遊撃手、柏崎常盤高では投手も兼務で2年秋に県8強入り。3年夏の県3回戦敗退で現役を終える。新潟工業短大への進学から新潟市に在住。2008年、長男が新通・坂井東野球団に入部、次男も入部した2010年からコーチに。翌2011年に5年生以下の監督となって選手と繰り上がり、13年に全日本学童大会初出場。次男が6年生の2015年度限りで父子で卒団し、日本文理高で甲子園に出場した次男を見届ける。地域3校目の小学校開校を機に、2020年に「新坂スピリッツ」となった古巣へ、翌21年に指導者で復帰。翌2022年から監督を務めている
[新潟・新坂スピリッツ]米山慎一
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根本雅章
[福島・勿来少年野球教室]
ねもと・まさあき●1976年、福島県生まれ。父親が監督を務めていた勿来少年野球教室で1年生から野球を始め、いわき市立植田中の軟式野球部まで、主に投手兼捕手。勿来工高では主に三番・捕手で、県ベスト8が最高成績。卒業後は社会人・小名浜製錬に勤務の傍ら、同社の軟式野球部で25歳まで投手としてプレーした。2000年に古巣・勿来少年野球教室でコーチとなり、02年に実父から指揮官を受け継ぐ。2010年に全国スポーツ少年団交流大会に初出場、13年に同大会2度目の出場でベスト8入り。2019年には全日本学童大会に初出場を果たした。東北大会出場5回、東北新人大会出場2回、GasOneカップ関東大会出場1回など、福島県を代表する強豪チームへと昇華させている。
子どもが多い環境にて
私たちのチームが拠点とする一帯は、新興住宅地です。母体は新通小学校で、創立150年を超えたそうですが、校区内でも子どもが増え続けています。そのため、昭和の時代に分離する形で坂井東小ができて、つい4年ほど前には新通つばさ小も開校しました。
チーム名が「新通・坂井東野球団」から現在の「新坂(しんさか)スピリッツ」に変わってきたのは、そういう経緯からです。
150年の伝統がある新通小からの、分離新設校として2020年に開校した新通つばさ小。大人の野球でも十分な広さの校庭を、週末に半日ずつチームで使用している
同じ新潟市でも、私をこのコーナーに招いてくれた、寺尾孝さん(北学ジュニア監督)が活動する北区は、子どもが減るばかりでご苦労も絶えないと聞きます。それでも、地域に根を張って「子どもの野球」を守っている寺尾さんは、尊いお方だと改めて思います。
また感心するのは、寺尾さん一人だけが躍起になっているというよりは、一緒に活動されている仲間が複数いて、その年代がみんな若いこと。いつも明るい感じでニコニコされている寺尾さんのお人柄や情熱がきっと、子どもとその親世代までも惹きつけているのだと思います。
寺尾さんを中心に、北区で主催されているローカル大会に参加させていただくたびに、そういう感慨が浮かんできます。と同時に、自分たちは子どもの絶対数が多いけど、その環境に甘えているだけではいけない、という気持ちにさせてくれます。
始まりの挨拶も張り上げるような大声ではなく、普通のトーンでグラウンドにも一礼
現在の所属選手は31人。でも、大きな小学校3校の学区域にあることを考えると、割合としてはとても低い。また実は3年前(2021年)、私が指導者としてチームに復帰したときには、選手は4年生以下の6人だけという、末期的な状況に陥っていたのです。
約10年前(2013年)には、小学生が憧れる夏のマクドナルド(全日本学童大会)に出場したチームが、まさかの惨状。その最大の要因は、新型コロナウイルスの蔓延と政府の外出禁止令、それに始まる諸々の自粛ムードでした。
もうひとつは、私はチームを離れていた期間のことなので推測ですが、大人主導の勝利至上主義がそのまま続いたこと。それによって、地域の親子たちから嫌悪されてしまったのではないか、と。
「下地はちゃんと作ってあげたいので、ウォーミングアップはトレーニングとして毎回きっちりと。理学療法士などに学んだメニューが20ほどあります」(米山監督)
実はその「大人主導」の土台を築いたのも、監督の私の第1期にあたる時代でした。2人の息子たちがプレーし、私が学年監督を務めた2011年から15年までの期間。当時は「勝利至上」という自覚はありませんでしたが、今から振り返ると、有無を言わせない長時間の拘束に、詰め込みの指導…。子ども以前に、大人たちが勝ちに走っていたことは否めません。
大人主導を改めた経緯
もちろん、週末や祝日のほぼすべてを費やして、ガチガチにやる野球を否定するつもりはありません。必要な技術も早く多く身につけられて、あれはあれでカッコいいなと思いますし、そういう野球も私は好きです。ただし、今はそこまでやろうとは思いませんが。
学童野球に対する考えが大きく変わったのは、中学・高校と次男の野球をサポートする過程においてでした。おかげさまで、次男は甲子園でプレーさせてもらうこともできましたが、一方で『この子は何のために頑張っているの!?』という疑問や同情を寄せたくなる選手が、カテゴリーが上がるほど多くいました。
中・高・大と進むほど、否応なく、第一線からふるい落とされる選手が増えていく。そういう現実を目の当たりにする中で、小学生のうちから全員一律で根を詰めてやり込まなくてもいいのではないか、という考えが強くなってきたのです。
現在は子ども以上に、笑っていることが多い指揮官。個々とのコミュニケーションも密だ
そこでコーチとして戻ってきたとき(2021年)に、当時の監督と話し合って「育む」をキーワードに、チームを立て直すことに。育成は結局、時間をかけて量をやって詰め込めば、きちんとした野球もできるようになる。でも、うまくなる一番のポイントは、大人が教え込むより、本人のやる気が出ることだというのが私の持論です。
また、復帰当初はコロナ禍にあって、外遊びをする子がほぼゼロ。所属していた6人の選手たちも、野球をするのはチーム活動中だけで、人数的にも対外試合はできない状況。そこで、大人は後方から見守り、たとえ上達が遅くても根気よく付き合っていく、というスタンスに。
半日活動でも最終的には…
現在の活動は、原則として土曜と日曜の午前のみ。子どもたちはそもそも、みんながみんなずっと野球をしたいわけではない。ですから、家族と映画を見に行ったり、温泉に行ったり、違う趣味とか習い事などもできるようにしてあげたい。そういう時間も与えてあげたいんです。もちろん、野球が好きな子がもっとやるのも自由で、実際に日曜の午後からまた校庭に集まって、やっている子たちもいるようです。
紅白戦をする・しないの判断も選手たち、オーダーもまた基本は選手たちで。「子ども同士のほうがシビアなので、多少はこちらで変更します」(米山監督)
そういう取り組みなので、育成には時間がかかり、チームの仕上がりも遅い。でも最終的には、それなりになってきます。
昨年はスポーツ少年団の大会で県ベスト4。秋口の6年生対象のSDGs大会(新潟地区)では2年連続で優勝。寺尾さんたちが主催するスーパージュニアカップは、今年も10月の決勝トーナメント進出を決めています。夏の全国大会も、結果的に行ければいいなとは思っていますけど、どうなんでしょうかね。
保護者も含めてある程度、監督の私を信頼してもらっていることが、成績が伴うことにもつながっている気はします。監督第1期のころは、対外試合から帰ってきての練習もザラでした。今はそれもまったくやりませんし、試合後のミーティングすらありません。
自ら真剣にやる野球が楽しくて仕方がない、というムードが常に漂っている
そもそも、私が初めて学年監督になった当時(2011年、5年生の新チーム)は、市内ベスト8が最高成績で、市外のチームとはほとんど戦ったこともない状況。私を含めて、全国大会の存在や予選の仕組みなどもまったく知りませんでした。
でも、私自身に勝ちたいという思いがあり、それを行動に移しました。知人を介して強豪チームの監督を紹介してもらったり、有名な監督の職場に出向いて練習試合を申し込むようなことも。そういう中で知り合った一人が、このコーナーにも登場された五泉フェニックス(新潟)の吉川浩史監督(➡こちら)。春・夏・秋・冬と五泉市まで通って、何かと見て話をして吉川さんからは多くを学ばせていただきました。
2013年夏、新通・坂井東野球団を率いて初出場した全日本学童大会の開会式にて
また一方で、チームブログを立ち上げて私から情報を発信。SNSを介して情報を収集しながら、全国大会に出てくるような県外の強豪チームとも交流をさせてもらうように。そういう過程も経て力をつけながら、全日本学童大会に初出場(2013年)。県決勝は10回やったら9回は負けるというような、とても強い相手に1対0のドキドキの勝利でした。
全国区の2強に分け入り
さて、私からご紹介するのは、福島県の勿来少年野球教室の根本雅章監督です。上記のように、監督第1期の時代に県外へも交流を広げている最中で、出会わせていただきました。
SNSを介して私からコンタクトをとらせていただいくと、すぐにお返事が来て感激しました。福島県の学童野球と言えば、今も当時も常盤軟式野球スポーツ少年団と小名浜少年野球教室という、全国屈指の2強が、いわき市を拠点に活躍されています。根本さんの勿来も同じ市内で、そこに割って入って2010年、13年と全国出場されている。それがどれだけすごいことか、学童野球の世界を知る人ほど分かると思います。
選手と監督だけではない。コーチ陣にもまた、自然な笑顔がある
根本さんはそういう、すごい実績を挙げながら、とても気さくで明るくて、面白い。その指導は厳しくもあり、優しくもあり。子どもに伝えるべきことは、しっかりと伝えられている。そういうイメージが強く残っています。
私が2015年度限りでチームを一度離れるまでは、毎年3月の勿来遠征がお決まりでした。茨城からもチームを招いてくれて、低学年も含めて3試合はがっつりと。その後もSNSでフォローさせていただいてますので、2019年の全日本学童初出場や、根本さんの教え子が甲子園でも活躍されたことなども知っています。
今回の企画コーナーでご紹介するにあたり、久しぶりに直接にご連絡したところ、変わらないお人柄でした。私は監督に復帰したことなどをご報告したところ、「オレは時代に流されてないぞ!」と(笑)。来年にはまた、試合をしましょうという話にもなっているので、今から楽しみにしています。
全国屈指の2強と同じ市内で、いつもギリギリの戦いをされている根本さんと、私とでは、境遇が違い過ぎるのは承知しています。その上で、メッセージをお伝えします。
『全国に行けるかどうか、ボクもわかりませんが、いつかはそこでもお会いできるように、以前とは違うやり方でまた頑張っています。遠征でお会いした際には、またいろいろと教えてもらいたいと思っています。よろしくお願いします!』