瀟洒な校舎や図書館や食堂は当然として、病院もある。ガソリンスタンドもある。植物の緑もふんだんで、校内バスが循環。ゆったりとした店舗は身の回り品やアパレルも充実しており、ほぼすべてに校名のロゴがある。遠めの青空に映えるモダンな建物の一帯には、学生が住んでいるとのこと。
もはや、キャンパスというよりは“ひとつの町”でした。「東京ドーム何個分」という発想すら愚かしくなるほどの、圧倒的なスケール感。初訪問の私は、それだけで度肝を抜かれたのでした。
みなさん、あけましておめでとうございます。今年も月イチでコラムを書かせていただきます。当面は、昨年11月の上旬に断行した、アメリカ合衆国での市場調査にまつわるネタになる予定です。
あくまでも、ビジネスでの米国進出。その公言が、ありがたいサポートに期せずしてつながり、実質4日間の現地滞在で十分に足がかりを得ることができました。初渡米だった私が、タイトなスケジュールの中で見聞きし、考えさせられたことなどを綴っていきたいと思います。
前回のコラムでは、渡米のそもそもの理由ときっかけを書きました(第22回➡こちら)。今回はアメリカの大学生とキャンパスライフ、野球を含む大学スポーツに触れたいと思います。
全米には4000校近くも大学があるそうです(日本は1000強)。私が訪ねたのは西海岸方面の3校と、公立のハイスクールが1校。ですから、ほんの一端を垣間見たに過ぎないのかもしれません。必ずしも、大国の全体像や実情の核心を突けていないかもしれない、ということを事前にご理解ください。
さて、冒頭のように日本の大学キャンパスとは比較にもならない規模感。これはショックキングでシンプルな驚きでした。同様に自分の足で動き、目で見た中で、じんわりと驚きの波紋を広げていったのは、現地の大学生たちの空気感でした。
“町”の中を往来したり、佇んでいる学生たちは、多くは3人や4人くらいで和やかな感じ。日本のキャンパスもそれは同様だと思います。しかし、屋外のグラウンドのエリアを除くと、日本で言うところの「体育会」の若者たちに出くわしません。いつどこを歩いてもそうでした。
初上陸の米国初日は、アリゾナ・クリスチャン大(上=アメフト場)と、グランドキャニオン大(下=野球場)を訪問
私の息子も私立大学の野球部でプレーしていましたが、日本のガチンコの体育会系の学生たちは、ある種の独特な空気を放っているものです。名のある野球部となれば、なおのこと一目瞭然。いかつい体にそろいのシャツやブレザーなどをまとっている。ひと昔前までは、そういう一団は学業試験の期間にしかキャンパスに現れない(あとは1日中、練習)という、有名私大も多かったのではないでしょうか。
アメリカの大学には、体育会系も文化系もない。いや、実際はあるのだろうが見分けるのはほぼ不可能で、誰もが一般の大学生にしか見えない。そういう世界に初めて立ち入ったことで生じていたらしい違和感は、言葉を交わす中で感心や驚きへと転化していきました。
「例えば『野球』のように、一芸に秀でただけで入れる大学は、おそらくありません。入学するには最低限の学力が必要で、大学生活でも最優先は学業。実際に、大学スポーツを統括する連盟には、学業試験で一定のラインに達しないと大会にも参加できない、というルールがあります」
通訳を介してそう教えてくれたのは、野球部のコーチでした。要するに、野球をしたくても、勉強をしないことには始まらない。好きなことをやるために、学業をがんばる。そういう環境にあるからでしょう、視察した野球部の選手たちからは、自ら「やりたい!」という堅固な意志を何よりも強く感じました。
名門・アリゾナ州立大は店舗内のあらゆる商品に大学ロゴが。一般生や保護者、OBや大学スポーツのファンにも人気だという
私が訪ねたうちの1校、アリゾナ州立大学は、野球部も「超」のつくエリート集団。MLB通算本塁打記録のバリー・ボンズや、日本のヤクルトでもプレーしたボブ・ホーナーら、多くの名選手たちを輩出していることを後から知りました。
その名門野球部でも、部員が集まっての練習は1時間から90分程度。オフシーズンのせいもあったかもしれませんが、時間の多くはポジション別の個別特訓に割かれていました。投手は延々と鏡の前でシャドーピッチング、捕手は二塁送球の動作を反復している。コーチは少し離れて、黙って様子を見ているだけ。歩み寄るのは決まって選手のほうからで、それも時折りでしかない。
そうした光景は、日本の学生野球のフィルターを介すると、ダラダラとしているように映るはずです。でも、だからといって「集中しろ!」「やる気あるのか?」「それで優勝できるのか?」「メンバーに入れねぇぞ!」といった、大人の怒号もありえない。そもそも、グラウンドやコーチへも一礼がなければ、足並みや声をそろえてのランニングもない。日本のいわゆる軍隊的な要素は欠片もなし。いや、むしろ日本のそれこそが世界からすれば「特異」なのだと、悟らずにはいられませんでした。
グランドキャニオン大の個別練習。捕手は延々と送球動作を磨き(上)、打者はまた延々と打ち込んでいた(下)
短い全体練習が終わっての解散後は、文字通りに選手たちは完全フリーに。何人かは、キャンパス内のパフォーマンスジムで動くというので、そちらも視察してまた驚きました。
小規模なアリーナを思わせるような堅牢な棟。そこがパフォーマンスジムでした。学校側の運営ではなく、学生たちとの個人契約で成り立っているとのこと。
入ると天井が高くて、通路は奥が見えないほど先へ続いている。フィジカルを鍛えるマシン類から、動作解析をする機器類まで、ハード面が充実。球技のエリアにはネットが張られているが、野球の打つ・投げる区画は全体からすると一部に過ぎない。
そこには野球以外にもアメフト、バスケ、ラクロス、サッカー、陸上と、あらゆる競技の選手たちがいました。中には競技者(プレーヤー)ではない、一般の学生もいて普通に体を鍛えている。各プレーヤーたちはトレーナーとマンツーマンで、計測やトレーニングをしていました。
料金についても質問しましたが、「個人契約なので幅が広いし、一概に言えるものではない」との返答。とにかく、各々が課題を明確にして、それと真剣に向き合っているのが印象的でした。野球部員もそう。プロの目と計測器で動作を細かく分析・評価をしてもらい、話し合いながら組んだメニューを黙々とこなしていく。日本との決定的な違いを感じたのは、そのあたりでした。個々の「自主性」においても、スケールが違うなと痛感しました。
日々の衣食住から集団行動で、練習は与えられた枠の中で進行していく。すべては勝つためであり、「協調性」においては、アメリカとはケタ違い。そういう日本の野球部や取り組みを否定するつもりはありません。正直、悲観的な気持ちも生まれはしましたが、それ以上に日本人としてファイトが沸きました。
負けてらんねぇな!と。確かに野球も本場はアメリカです。でも、必ずしも迎合する必要はない。国土も風土も文化も政治も大きく異なるのに、一部を小手先だけ模倣しても、ろくなオチにならないのだと思います。また土台からして、日本の大学で同じことができるはずもありません。
ただし、学生たちのマインドの部分では、再考や模索があってもいいのではないか。私はそう思いました。対義語ではありませんが「協調性」と「自主性」のあり方を考え、適切なバランスを探ってみる。結果、新たな道が拓けたり、取り組みの変化が大きなプラスをもたらすこともあるかもしれません。
次回は、キャンパス外にも点在していたパフォーマンスジムについて、掘り下げてみたいと思います。
(吉村尚記)