社長コラム

【vol.18】「公言」の4つのメリットを感じつつ、心また新たに

【vol.18】「公言」の4つのメリットを...

2024.07.14

 われわれフィールドフォースの創業は、2006年の11月。それから毎年11月を1年の区切りとしており、現在は第18期にあたります。  おかげさまで、去る17期までにマイナスの収支は一度もありません。国際情勢の不安に加えて、円安に物価高と厳しい外的要因もあり、楽観はできませんが、第18期も黒字が見えてきています。  私は創業者であると同時に、全社員とその家族を守る責務もある社長というポジションにいます。黒字の継続は胸を張れることのひとつですが、生来は心配性でマイナス思考に陥りやすいタイプです。  それでも今があるのは、やたらにリスクを気にして「守り」に入ってきたからではありません。むしろ、「攻め」の一手で突っ走ってきました。  数えきれないほどの失敗もありますが、教訓が必ず残ります。また、「可能思考」というものに出会ったことも、大きな推進力になりました(コラム第10回➡こちら)。近年はさらに、「意図した公言」が物事の進捗を早め、成果を上げています。  2022年12月オープンの「ボールパーク柏の葉」(千葉県柏市)に、本社機能も東京・足立区から移転  この『学童野球メディア』は、第17期の目玉として社内で1年も前に公表。そしてオープンから1年を経過し、軌道に乗ってきていることは、前回のコラムで書いたところです。  続くこの第18期は、『外商部』という新しいセクションが動き出しています。これもまた事前の公表に始まり、予想を超えるペースと勢いで広がりをみせています。  平日練習の市場を開拓したフィールドフォース。商品のユーザーは、大半が学童野球の選手たちです。一方、外商部のターゲットは、原則として高校野球以上のカテゴリーで、主目的は生きた情報の収集と新商品の開発(既存品の改良を含む)。具体的には、チームが活動する現場に足を運び、指導者や選手たちの生の声を聞くことから始まります。  カテゴリーも使途も違うので、既存の売れ筋商品を持ち込むだけでは意味がありません。チームや複数人での硬式野球の練習、屋内練習場での大人の特訓に役立ちそうな商品を厳選。さらにはカタログにない商品も併せて、訪問先でどんどん試用してもらいながら、感想や意見を拾っていく。 ボールパーク柏の葉4Fの本社オフィス。部署も役職も関係なく、どのデスクもフリーで使用している  そんな外商部の実働開始は今年の2月でした。これに先立って、社で積極的に取り組んだのがSNSを介した発信。「意図した公言」で退路を断つと、やる気スイッチが自ずと入ります。私はまた、学生野球の時代から付き合いのある仲間たちに、自分の口から「外商」という従来にないアプローチを仕掛けることを伝えていきました。  するとどうでしょう。訪問先を紹介したいという声が多数、届きました。そして初めて訪問した先で、また新たな訪問先を紹介されるケースも多々。チームからチームへ、人から人へと、枝分かれもしながら世界が広がるばかりで、人の手が追いつかないほどに忙しくなってきています。  ほんの一例ですが、東都大学リーグの名門・東洋大。ここは外商部の主力社員、田中悠太が4年間を懸命に過ごしてプレーした母校です。この彼の古巣からは系列の私学高校だけではなく、OBが在籍・指導する中・高・社会人チームへと、つながりが広がっています。 外商部の田中社員の母校・東洋大へ。まずは持ち込んだ商品をどんどん試してもらった  あるいは社会人野球の名門・JR東日本。こちらは私の高校時代(千葉・二松学舎沼南)のチームメイトにして、社会人・NTT東日本や日本代表でもプレーした飯塚智広さんの紹介でした。  同社の硬式野球部は千葉県の柏市が拠点。またフィールドフォースも、2022年12月に同市へ本社も移転したことから、飯塚さんが間を取り持ってくれたのです。訪ねてみると、田中仁マネジャーは息子が学童野球をしており、石川修平コーチは自身も認める“トレーニング・オタク”とあって、すぐに意気統合。新たに別の社会人チームなども、ご紹介をいただきました。  小学生の平日練習用の商品は、フィールドフォースのサイトを介した通販がメイン。顔と顔を見合わせての対面販売はごく稀です。一方、外商は現場の指導者や選手と直接に対話ができる、という大きなメリットがあります。結果、各訪問先での意見やニーズを反映した商品の開発と受注が、ともに増えてきています。 既存商品の「落下ティー」は、セルフ式で地面のネットに落ちたボールの跳ね上がりを打つ(上)。東洋大では「上から落ちてくるボールを打ちたい」との要望があり、サイズアップした改良版が完成(写真下右)  もちろん、ご紹介者の顔に泥を塗るようなマネは絶対に許されません。もしも、訪問先へ非礼や無礼があったり、それに気付くこともできない体質なら、外商部どころか社もやがて立ち行かなくなることでしょう。  とにかく、赴く前の準備から田中も私も懸命です。そして現場では、持ち込んだ商品のそれぞれ何が優れているのかを丁寧に簡潔に説明し、使ってもらう。そして求められればフォローも速やかに、またどんな些細にでも耳を傾ける。当たり前のことを、当たり前にしています。  公言をすると、実行力と持続力が自ずと生まれる。また、支援者が必ず現れてモチベーションを引き上げてくれる。そして、有益な情報も集まってくる。私はこの4つのメリットを身近に感じながら、第19期の新たなトライを模索する今日この頃です。 つながりは複数のNPB球団へ。埼玉西武ライオンズでは、試用(上)から購入された「移動式の壁(カタログ非売品)」がブルペンの後方などで活躍中(下)  人から応援や期待をされると、後には引けなくなる。最大の誠意と情熱をもって事にあたらずにはいられなくなる。どうやらこれも、私の性分のようです。  その始まりは何なのだろうと記憶を遡っていったところ、「二十歳の1月15日」で思い出のページをめくる手が止まりました。  大人の門出を祝う成人の日は、1999年までは「1月15日」と決まっていました。自分たちの番だったその年、私は一人、海外の中国(中華人民共和国)にいました。留学先の大学で、中国人の学生と同じく、中国語で授業を受ける本科生に。でも、年末年始や成人の日だからと、一時帰国ができるほどの金銭はありませんでした。...

【vol.17】公言して始めた『学童野球メディア』の根源=やる気スイッチ

【vol.17】公言して始めた『学童野球メ...

2024.06.14

 早朝というほど早くはありませんが、あまり人のいない7時にサウナに入って、60分で整い、9時半には会社へ。前回に予告した通り、有言実行のすっきり感をもって月イチの執筆に取り掛かりました。  このコラムを掲載している『学童野球メディア』を開設したのは昨年の3月。もっと昔のことのようにも感じますが、私がこのプロジェクトを社内で発表したのは、2年前のことでした。  不毛の大地に苗を植えるような、前例にもない創作です。『小学生の野球に特化したデジタル報道メディア』という触れ込みも、当初はどういうもので何を目的とするのか、よく分からないという社員も少なくなかったと思います。それも承知の上で、私はあえて自分の口から公表しました。なぜなら、「公言」には複数のメリットや効果があるからです。 「今年は3割打ちます!」「2ケタ勝利が目標です」など、プロ選手がシーズン前にメディアで宣言することがありますね。そのきっかけや狙いは個々で異なるでしょうが、一定の同じ効果があると思います。  公言をするとまず、否応なく意識が高まります。これから己がやることや成すべきことを広く人に知ってもらうことで、腹が決まって踏み出す勇気が沸いてくる。  そうして「スイッチ」が入るとともに、継続するエネルギーも獲得できる。自ら口にしたからには、もう後には引けない。そう簡単にはやめられない。ある意味、追い込まれた状況に身を置くことで、目に見えないパワーや根気が沸いてくるのです。 『学童野球メディア』の構想は、私の中では3年ほど前から、おぼろげにありました。きっかけは2021年の秋、私が受けたひとつの取材にありました。  インタビューを申し込んできたのは、スポーツ界ではよく知られた老舗の出版社、ベースボール・マガジン社。担当は雑誌『学童野球マガジン』の大久保克哉さんという編集者兼ライターで、それ以前には少年野球雑誌『ヒットエンドラン』でも編集長をされていた。私は面識はありませんでしたが、存在と名前は認知していました。その大久保さんから企画書が送られてきてから、電話でこう口説かれました。 「創刊号から始める『学童球界を支える人』という連載のトップバッターは、吉村社長しか考えられません!」  こうまで言われて、断る理由があるでしょうか。大久保さんの取材がまた、前例にないものでした。私はそれ以前にも複数のメディアに出ていましたが、あんなにもガッツリと時間をかけて深掘りされたのは初めて。気付けば、すっかり舞い上がっている自分がいて、普段は話さないようなことまでを良い気分で発していました。  あとから少し心配になりましたが、それも杞憂に。学童野球や仕事に対する私の熱や想いが、刷り上がってきた雑誌の記事に見事に投影されていたのです。そして家族や知人ら、記事を読んだ人たちがみんな大いに喜んで褒めてくれました。  恥ずかしながら、私自身もめちゃめちゃにうれしかった。MAXでいたはずの「やる気」のギアがまた上がったことを覚えています。第三者を介して、自分や想いが存分に世に発信されると、こんなにも高揚して前向きなマインドになれるのだ――今の自分と同じような感覚をいろんな方々に経験してもらえたら――。  それが『学童野球メディア』の構想の原点。目的や存在意義は開設時にサイト内で発表した通り(➡こちら)ですが、それとは異質のコンセプトの「根源」とでもいえばいいのでしょうか。河川でいうと源流の最深部、山奥のどこかの岩陰で滴る最初の雫です。  その後、大久保さんから担当する『学童野球マガジン』の実質的な廃刊と、ゆくゆく退社する旨の報告を受け、私はすぐに行動を起こしました。山奥の1滴から流れをつくるべく、大久保さんに何度も会いに行ったのです。  あれは夏の全国大会。彼は神宮球場のカメラマン席で写真を撮りながら、1球1球スコアをつけ、試合後はインタビューへ走っていく。炎天下で連日4試合、それを続ける姿を隣で見ていた私は、あらためて確信と決断をしました。  よし、この人と一緒にまったく新しいメディアを立ち上げよう!  そして早々に社内でそれを公言するとともに、大久保さんには私の構想と本気度を率直に伝えました。最終的に共感をいただいて、われわれフィールドフォース社のファミリーとして迎えました。 2022年8月、全日本学童大会開会式と2回戦、最終日に現場の大久保さんと再会   大久保プロデュースによる『学童野球メディア』は、そのような経緯で始まったのです。「さん」の敬称を省いたのは、現在は私の社の部下にあたるから。彼は何も気にしていないそうですが、今でも2人の会話では「大久保さん」と呼んでいます。  さて、オープンから1年としないうちに、『学童野球メディア』に対して予想通りの反応がありました。選手は当然ですが、親御さんや指導するコーチや監督など、主役を取り巻く人たちまで。大久保に取材されて記事に書かれた人たちにお会いすると、かつての私と同じような高揚感で話してくれるのです。 「ありがたいです、あそこまでしっかり書いてくれて」「言いたかったのはホントにああいうことなんです。ありがとうございました」…。そしてそういう大人たちの多くが、最後には決まってこういう感じのことを口にします。 「ああやって取り上げてもらった以上は、もっと頑張らないといけないと思います」「もう中途半端でやめるわけにはいかなくなりました」  ある意味、大久保の取材と記事が当事者(被取材者)の生き方を変えているのです。かつての私もそうでした。うわぁ、なんだこれ、もっとやる気が出てきたな、とモチベートされる。選手はもちろん、応援する父母や指導者たちが、かつての私と同じような感覚を味わえる(「やる気スイッチ」オン)のだったら、主役である子どもたちを取り巻く環境はもっと良くなるはず。  私は今でもそう信じています。大久保自身に、そこまでの意図があるのかどうかは不明です。先述したような「根源」(構想の端緒)までは、彼にも話したことがありません。ともあれ、いろんな人を動かし、いろんな人を意識改革して、前に進ませている。『学童野球メディア』には、そういうシナジー効果もあることを再確認して今に至ります。  公言をすると、実行力と持続力が派生する。私の経験則では実はまだ2つ、メリットや効果があるのですが、紙枚が尽きたようです。次回は『学童野球メディア』に続く、新しいプロジェクトを例に言及したいと思います。...

【vol.16】「仕事」と「野球」を除けば、骨抜きの私でも…

【vol.16】「仕事」と「野球」を除けば...

2024.05.15

 好きなことを仕事や生業とする幸せ。これはその当事者よりも、好きでもない職に従事したときに、より感じるものなのかもしれません。  最近のある調査によると、そういう意味での「幸せ者」は3割弱。およそ3人から4人に1人、だそうです。ひと昔前までより、増えたように思います。世の多様化や働き手不足も背景にあるのでしょうか。  ともあれ、私は「幸せ者」のひとり。大好きな野球というスポーツをど真ん中に据えて日々、働いて暮らしています。思い通りにいかないことのほうが圧倒的に多い。にもかかわらず、幸せを感じることができるのは、少年時代から熱中してきた野球に深く絡めているからに他なりません。  そもそも「幸せ」とは主観。第三者の観念や物差しで決まるものではありませんね。自分の「幸せ」が額面通りには、人様に理解されないこともよくあるのだと思います。なにしろ私も、ともに暮らす息子からこのように言われたりするのですから。 「父ちゃん、毎日そんなに仕事と野球ばかりで楽しいの?」  もちろん! 考えるまでもなく即答できます。でも、一歩引いて俯瞰してみると、自分自身に対して感じてしまうことがないわけではありません。 “オレって、ホントに無趣味でつまんねぇヤツだな…”  お酒は嫌いではありませんが、飲まなくても普通に暮らせます。軽く晩酌程度はすることもありますが、自分から外へ積極的に飲みに出ることはまず、ありません。  競馬や競輪、競艇などの公営ギャンブルも、やったことがないので知識ゼロ。馬券がいくらで、どこでどういう買い方をするのかも知りません。なので、人との会話でギャンブル系の話題となったときには「そうなんですか」と「そうなんですね」くらいしか言えない。パチンコやスロットも未経験。それこそ「宝くじ」すら、一度も買ったことがないのです。  誤解を恐れずに言えば、運をそんなところで使いたくない! 私にはこういう思いが根強くあります。またその「運」は、そのまま「時間」に換言できるかもしれません。  着るものや身につけるものや使うものなど、日常的なアイテムにもほとんど無頓着。その理由は、買い物やチョイスにかける時間が惜しいから。関心がわかないというより、面倒くさいと思ってしまうのです、勝手に。  ですから、「私服」と呼べるものは冬用と夏用でアウターが少しある程度。あとはたとえば、Tシャツでも同じメーカーの同じカラーの同じサイズを3着常備していて、それを着回している。モノへの執着度については、ほぼこんな感じです。  こういう性分なので、月イチでコラムを書くにもジャンルが限定されつつあるような気も。先述したように“オレって、つまらねぇ…”と思いかけて気付きました! この私にも、仕事と野球以外に趣味と呼べるものがあったのです。  ずばり、サウナです。それも昨今のブームに便乗したのではなく、年季も入った筋金入りの玄人。その始まりは「サウナー」や「整い」なんて言葉は存在もしなかった、昭和時代の末期ですから。  過去のコラムで書きましたが、私は東京の下町に生まれ、母子家庭で育ちました。金銭面では非常に厳しい暮らしでしたが、私と兄の息子2人のために昼夜を問わずに働いてくれた母には感謝しかありません。私はまして、大好きな野球を高校まで何不自由なくやらせてもらえたのです。  その高校球児の時代にハマったのが、サウナでした。生家にはお風呂がなく、幼いころから銭湯へ。千葉県の私立高校で、仲間と甲子園を目指すようになった私は、帰宅は毎晩11時半前後でしたが、銭湯通いを欠かしませんでした。 幼少期から通い詰めた下町の銭湯。その後、屋号も経営も変わったようだが、場所と思い出はそのままだ  その後、名前も経営も変わったようですが、当時の浅草にあった「旭湯」という銭湯。高校時代は確か料金400円で、サウナも自由に出入りできました。深夜帯のそこは、ほとんどが顔見知り。高校球児だった私はみなさんの関心の的で、気付けばサウナと水風呂までともにして話をするように。  そしてある日、甘美な世界を知ってしまったのです。今風の言葉では「整い」というトランス状態。私の場合は、体が軽くなって宙に浮いているような感覚。汗とともにムダな毒素も抜けた感じがして、頭の中も空っぽの「無」になる。すると、翌朝は疲労感ゼロで、すっきりと目覚めて5時20分の始発電車に乗って野球部の朝練へ。  このサイクルが高3夏まで約2年半、続きました。競技者としての野球は高校で終わりましたが、脳と体はあの甘美な「整い」の快感を忘れるわけがありません。ある種の中毒、“サウナ・ジャンキー”がここに生まれたのでした。  社会人になってからは、街を車で運転していても「湯」「サウナ」などの看板や電飾、温泉のようなマークに敏感に反応。仕事帰りであれば、初見のサウナはほぼ確実に立ち寄ります。すべてはあの、快楽を求めて――。  まずは湯舟に数分つかって、汗が出る程度になったらサウナへ。大抵のサウナには針1周で12分のアナログ時計があり、その半分までサウナで汗を出したら水風呂へ。キュッと体が締まったら、今度はサウナで12分の我慢をしてまた水風呂へ。この2巡目の後に、外気浴や休憩に入る人も多いようですが、私はすぐに3度目のサウナへ。  このときが一番キツいのですが、時計の針が1周(12分)するまで辛抱します。これでトータル30分。サウナでたっぷりと汗を出し終えたら、ようやく外気浴へ。ゆったりしたチェアなどに身を預けると、どこからともなくやってくるのです、甘美な世界が――。  上記が私の「整い」までの不変のルーティン。最終的にこのサイクルで落ち着くようになったのは、20年以上も前だと思います。私にとっての「サウナ」とは、銭湯とのワンセット。水風呂と湯舟が不可欠なので、地方出張時のビジネスホテルなど、大浴場とサウナがあっても水風呂を併設していない場合は利用しません。  また、昨今の流行りのロウリュ(蒸気を発するサウナ)やスチームサウナ、塩サウナ、岩盤浴など、案内を目しても何ら惹かれません。昔ながらの狭苦しい、灼熱の高温サウナでいいのです。  コロナ禍以降、サウナ通いは少なくとも週4。だいたいは週5です。朝イチに日帰り入浴施設へ行き、密状態にないサウナをゆったりと利用して「整う」のが私の生活のルーティンとなっています。...

【vol.15】モノづくりにも会社経営にも、言い訳なし!

【vol.15】モノづくりにも会社経営にも...

2024.04.12

 黄色いカラーの穴あきボール。これで打撃練習をしてから試合に臨む、というルーティンが学童野球で定着してきました。  穴あきボールは、軽くて柔らかいのに投げても風の影響を受けにくい。穴が開いているので、金属バットで思い切り打っても回転(スピン)が急激に弱まり、さほど飛ばないという優れものです。 全日本小学生野球交流協会滋賀県代表決定大会より(2024年2月、滋賀・長山公園野球場)  その安全・安心な打撃用ボールが世に登場するまでは、危険回避のために試合前の実打を禁止する大会がほとんどでした。実は10年ほど前にそれを開発したのが、われわれフィールドフォースです。  モデルとしたのは、河川敷ゴルフ(現在は大半の地域で禁止)で大流行していた、穴の開いたゴルフ練習用のボール。創業当初の弊社は、これをOEM(他社ブランド品の受注生産)で大量に扱っていました。その製造ノウハウを応用し、より柔らかい仕様で直径70mmの野球の打撃練習用ボールへと造り替えたのです。  今では同様の商品が他社からも一斉に発売されていますが、これも大歓迎。穴あきボールがより広く浸透し、直前の実打(打撃練習)から自信を持って実戦に臨めるプレーヤーが増えていく。だとしたら、非常に素晴らしいことではないでしょうか。  やせ我慢で、きれいごとを吐いているわけではありません。開発者や元祖というだけで、幅を利かせるつもりもありません。われわれフィールドフォースは、常に二歩先、三歩先をいって二番煎じを引き離していると自負しています。 「軟らかさ=安全」も追求したFF社の穴あきボール。昨秋からホワイトカラー(下)も登場  穴あきボールで言うなら、フィールドフォース製のそれは圧倒的に軟らかい。それだけ安全でありつつ、ボールの復元性も耐久性も伴うという点で、確実に差別化ができている。柔らかさの秘密は素材にあり、主成分のポリウレタンにEVAという素材を加えています。  主成分にマッチする別素材を探し出し、最適の含有率を導くまでには、およそ2年を要しました。でも、これだけでは知的財産権も特許もありえません。一方で昨秋からは、試合球と同じホワイトカラーのモデルを市場に投入しました。試合球と同じ色のボールを打って実戦に入れば、目慣れの効果もあるだろうという考えからです。  有形のモノづくりにとって、混じり気のない「白色」というのは、実はハードルが上がります。素材や工程のほんのちょっとしたことでも「白」が変色してしまうことが多いからです。しかし、不利な状況も克服してこそブランドの優位性は高まり、プレーヤーをモチベートする原動力にもなる、というのが私の一貫した考えであり、経験則。 「白なんて難しいし、カネも掛かるから無理!」と、サジを投げるような体質の組織であったら、弊社はもう存在していなかったかもしれません。モノづくりでも会社経営においても、言い訳をしない――この哲学が組織と人を育み、ひいては野球界と未来の一助になると私は信じています。 第38回吉川市近隣大会より(2024年3月、埼玉・旭公園野球場)  直近の15年で約5000もの学童野球チームが消滅。野球界の底辺と未来を支える少年少女たちが、少子化の波を超えるペースで減ってしまっている――。  最近はこの手のニュースを見聞きするようになりました。野球を愛する一人として、非常に残念です。一方、この業界でモノづくりを生業とする社のトップとしては、それを言い訳にして手をこまねいたり、嘆いてばかりでは何も始まりません。  競技人口の減少傾向と危機感は、業界内では10年以上前から囁かれていました。厳しさを増す要因はいくつもあって、複雑に絡んでいたりします。その中でわれわれフィールドフォースが最初に目をつけたのは、背景となる野球環境の劣悪化でした。 野球を取り巻く環境は全国的に厳しさを増すばかり… 「ボール投げ禁止」「バットの使用禁止」という看板が、都市部や住宅地の公園から全国的に広がっていました。主な理由は、野球以外の公園利用者にとって危険だから。  昭和の時代には日常的な風景であった、空き地や公園で野球をして遊んでいる子どもたち。島国の限られた国土の日本で、これを蘇らせるのは不可能でしょう。しかし、野球をやりたいという子どもや、その親のニーズは確実にあります。 ボールの跡がつく(下)ことなどから、住宅地での「壁当て練習」も現在ではほぼ見られない  ならば、手狭なスペースでも練習できる道具、パートナーがいなくても使える道具があれば、いいのではないか。それを世に生めば、野球をしたいという親子のニーズに応え、もっと上達したいという選手たちの役に立つこともできるはず――。  こういう論理から、モノづくりのコンセプトを6つ打ち出しました。❶簡単組み立て❷楽々移動❸省スペース➍パートナー不要❺実戦感覚❻繰り返し練習。これらをすべて満たしたときに、プレーヤーにとっても“言い訳のできない商品”となるのです。 FF社のモノづくり6つのコンセプト。すべてを満たす商品があれば、練習できない環境にはならない=言い訳できない  その代表格が、一人でもエンドレスでティー打撃ができる商品「オートリターン・フロントトス」。発売から10年を過ぎた今も、トップ3のセールスを記録するヒット作です。インターネットの普及による口コミから、人気に火がついたのでした。  グラウンドでの一般的なティー打撃を思い浮かべてみてください。そこには必ずパートナーがいます。選手が務めることもありますが、トス係で野球が上達することはほぼありません。パートナーは何球ずつかを手に取ってから、1球ずつ腕を振り子のようにしてトスをする。ボールの数は相当にあり、すべてを打ち終えたら拾い集めます。  その練習効率を倍以上に引き上げてくれるのが「オートリターン・フロントトス」です。ネットに打ち込んだボールが自動的に回収されて、また自動的にトスを上げてくれる。電力(モバイルバッテリーでも可)は必要ですが、パートナーは不要。その気とネットに打ち返す技術があれば、一人で永遠にティー打撃ができるのです。冒頭の穴あきボールも付属(4個)しているので、より安全に実施できます。...

【vol.14】他力本願はNG――対中国ビジネスに必須の要素❸主体的に即、行動

【vol.14】他力本願はNG――対中国ビ...

2024.03.15

「有没有問題?(ユウ・メイ・ユウ・ウェン・ティ)=問題はありますか?」 「没問題(メイ・ウェン・ティ)=問題ありません・大丈夫」  いまでも中国人とは日常的に電話で話しますが、この言葉のやりとりはもう10数年はしていないと思います。  たとえ不安があったり、実際は問題だらけであったとしても、「大丈夫か?」と問われたら、ふたつ返事で「大丈夫!」と答える。それが中国の人々なのです。  それを知らないばかりに、痛い目に遭ったという邦人の企業やビジネスマンは少なくないことでしょう。かつての私も、その一人でした。 1990年代半ば、中国に留学した学生時代の一枚。この国の言葉や文化を理解していたつもりが、ビジネスシーンでは当初は困惑も多々  われわれフィールドフォース(FF社)の軟式球は、すべてメイド・イン・チャイナ。いまでは現地に約30の協力工場がありますが、最初の工場(軟式球製造)が稼働したのは2008年あたりのことでした。私も中国に渡って1年掛かりの準備を経て、担当と冒頭のような最終の会話をして、いざ、大量生産がスタート。  ところが、日本の港に初めて届いた軟式球は、すべてが不良品でした。その数、1万球。どれもこれもが基準値を遥かに超える、大きいサイズだったのです。原因は製造段階にあり、芯の部分に混入するガス濃度が高過ぎたために、ボールが異常に膨らんでしまったのでした。  また信じられないことに、その「高濃度」は機械の故障などの事故ではなく、人為的なものでした。工場の担当者の独り合点で引き起こされたのです。彼の弁明の趣旨はこうでした。 「ガス濃度を上げたほうが、表面の模様が確実にきれいに出る。ボールのサイズが大きいのは気圧の問題で、3、4カ月もすれば自然に基準値に戻るので心配ない」 中国で生産した軟式球は本来、船積み前に外観(写真)、重量、サイズを最終チェックする。だが、最初に日本へ届いた1万球はすべて規格以上の大きさだった  日本のこちらには約束の納期があるというのに…。ただ、彼の行為も「良かれ」と思ってのことで、悪気がなかったのは確かでした(※軟式球の仕組みを含む詳細は、前回のコラム第13回➡こちら)。  不良品となってしまった1万球は、大型のスポーツ専門店のブランド品として受注生産したものでした(OEM)。 「どーすんだよ、『問題ない』って言ったじゃねぇかよ!」  予定通りに納品できなくなった旨を切り出した私を、依頼主のバイヤーはえらい剣幕で怒鳴りつけてから、こう続けました。 「これ(1万球)、オマエのところで何とか補填しろよ!」  当然、そのつもりでした。当時のFF社は創業からまだ間もなく、OEMが業務の柱。ここで責任も放棄すれば信用は完全に地に堕ち、立ち行かなくなることも目に見えていました。  私は即座に手を打ちました。日本国内で代替品の調達に奔走。サプライヤー(納品業者)にも事情を説明して詫びてから、協力を仰ぎました。  また同時進行で、中国の軟式球の工場とも頻繁に連絡を取り合いました。製造段階のガス濃度を仕様通りへと修正させない限り、基準値を超える大きいボール(不良品)がいつまでも造られてしまうからです。そしてその修正をさせるには、理由を正しく理解してもらう必要がありました。 日本での補填業務が最優先。写真のように中国での指導はその後に  本当なら、いますぐにでも中国へ発って現場で説明をしたいところ。しかし、日本のバイヤーへの対処が最優先であったため、私は努めて冷静にまた丁寧に、工場の担当者に電話で説明を繰り返しました。 「あなたたちの工場で生産した軟式球は、日本の港に着いた時点で、すべての基準を満たしていないといけない」「なぜなら、すぐに市場で売られて使われる商品だから」「したがって、製造段階で意図的にガス濃度を上げるのは禁止です」「すべての製造工程で、仕様の数値を守ることが絶対に必要です」…。  バカにならない損失を負いつつも、依頼主の大型専門店へ辛うじて1万球を納めることができました。これをもって私は即座に、中国へ飛びました。  まずは工場の担当者と直接に話をしてから、製造工程をくまなく点検。電話での説明が正しく理解されていることも再確認してから、検品ラインに入りました。船積み前の軟式球を1個1個、確認することを私が自ら始めたのです。  人任せにして不安にかられるよりは、苦労しようとも自分でやってしまいたい、というのが私の性分。これを境に、OEMの軟式球はすべて、船積みの1カ月前から私が中国で最終点検をするようになりました。  軟式球の検品作業は、やってみると非常に骨が折れました。物体の厚さや径などを測定する工業用の器具に「ノギス」(写真上)というものがあります。当初はこれを使った手作業で1個ずつ検品していました。1万個を単位として。...

【vol.13】えらい失望の挙げ句に罵られ――対中国ビジネスに必須の要素❷主体性

【vol.13】えらい失望の挙げ句に罵られ...

2024.02.14

 いまでは餡子(あんこ)やクリームなど甘いものだけではなく、肉類や野菜が入ったものもあるらしいですね。日本人に長く愛されている「たい焼き(鯛焼き)」の話です。  ぶらりと街を散策中に「たい焼き屋さん」の前でふと足が止まり、出来上がりまでの工程や職人の手さばきに気付けば見入っている――。こういう経験がある人も少なくないことと思います。  二枚折の鉄板のくぼみに生地を流し入れ、餡子を乗せてから鉄板を重ね合わせる。焼けた頃合いで重ねた鉄板を引き離すと、魚の形にウロコやシッポも再現された「たい焼き」の出来上がり。  実は日本発祥の野球の軟式ボール(軟式球)も、それによく似た工程で作られていることをご存知ですか? 「たい焼き」も「軟式球」も、日本人の多くは単語を耳にしただけでズバリそのものをイメージできるはずです。一方、外国の人たちには、どちらも想像すらできないことのほうが圧倒的に多いと思います。  われわれフィールドフォース(FF社)で販売している軟式球は、すべてがメイド・イン・チャイナ。中国におよそ30ある協力工場で、製造されています。いまでこそ安定した品質で大量生産も可能ですが、軌道に乗るまでは困難の連続でした。  何しろ、「野球」というスポーツがほとんど入り込んでいなかった異国です。現地の工場の方々に軟式球を理解してもらうだけでも骨が折れました。その至難さは、外国人に「たい焼き」を説明するのと同じと言えば、想像がつくでしょうか。  それでも知識を重ねれば、「無知」のほうはどうにかなります。もっと厄介で事態を深刻にしていたのが「文化や風習の違い」でした。その具体例のひとつを前回のコラムで記しました(第12回➡こちら)。今回はまず、日本人でも多くが知らないだろう軟式球の製造工程から入りたいと思います。 軟式球の製造工場にて(中国・福建省アモイ/前列右から2番目が筆者)  軟式球の製造工程は、先述したように「たい焼き」のそれと似ています。ざっくりと説明すると、リンゴを縦半分に切ったときのようにボール型に凹んだ金型にゴム素材を流し込み、金型同士を合わせたら熱を加えて張り合わせる。  肝となるのが、「たい焼き」で言うところの餡子(中身)の部分で、軟式球では金型同士を合わせる前にガスを混入します。専門用語では「起爆剤」という気体。このガスが熱で膨張することで、ゴム素材が金型に強く圧しつけられる。その結果、縫い目やディンプル(模様)が表面にくっきりと表れたボールが出来上がります。  難しいのは起爆剤の濃度(圧縮率)です。低すぎると、ボール表面の模様がしっかりと出ない。逆に高濃度すぎると、必要以上にゴム素材が膨張してしまい、ボールそのものが規定サイズに収まらなくなる。厳密には、ゴム素材や調合する薬品類の兼ね合い、加熱の仕方なども含めた調整と使用テスト(反発力)を重ねる必要があります。 軟式球の不良品の一例。表面の模様がきれいに表れないのは、混入するガス濃度の問題が真っ先に疑われる  形も直径サイズも重量も反発力も、基準を満たした完成品。その仕様がはっきりと定まったら、次は大量生産用のラインを構築します。そしてまたサンプルテストを重ね、これもパスしたら本格稼働へ。軟式球の製造工場はこうして誕生します。  私が中国で最初に携わった協力工場(軟式球)は、着手から本格稼働までにおよそ1年を要しました。もう10数年前、FF社の創業から間もないころで、他社ブランド品の受注生産(OEM)を主な柱としていた時代です。軟式球の製造も、大型のスポーツ専門店からの依頼が始まりでした。  相応の資金を投じて、私個人の情熱と手間暇とスキルも惜しむことなく捧げて、ようやく稼働に漕ぎつけた中国の製造工場。大量生産も可能なシステムを現地で整えてから、帰国した私を待ち受けていたのは筆舌に尽くしがたい怒りと落胆でした。 直径サイズ、重量、反発力。すべて基準を満たさなければ商品にはならない  何度も何度も、中国でテストと改良を重ねた果ての完成品(軟式球)が、船に揺られていざ日本に届いてみると、すべてが不良品だったのです。どれもこれも手に取る以前、見るからにサイズが大きすぎる。それが何と1万球以上も…いったいこれは、どういうことなんだ!? すぐさま中国の担当へ電話を入れました。 「最後に私が確認したときに、あなたは『問題ない』と言いましたね? それなのになぜ、こんなにもサイズが違うものを送ってきたのか?」  務めて冷静に、北京語で問い質すと、このような答えでした。 「いや、問題ない。起爆剤の濃度を上げただけだから、いまは大きいけど時間が経てば萎んでくる。要は気圧と時間の問題で、元のサイズに戻るとわれわれは考えている」 「なぜ、そんなに濃度を上げたのか?」 「あなた(社長)は、表面がきれいに出るかどうかを一番気にしていたから。3、4カ月も置いておけば必ず縮まるから、心配しなくていい」 「いやいや、そういう問題ではない! こちらは相手先への納期があるんだから」 「そこはあなたの責任ですよ!」  ストレスにストレスを上塗りするような会話。埒の明かない不毛なやりとりの中で、私は深く悟ったのです。  中国では相手に依存をしてはいけない! こちらが主体性をもつべきで、彼らが発する「没問題(mei...

【vol.12】 “アルハラ”の代わりに――対中国ビジネスに必須の要素❶忍耐力

【vol.12】 “アルハラ”の代わりに―...

2024.01.17

 飲酒を無理強いするのはやめましょう!  忘年会からこの新年会のシーズンにかけて、アルコール・ハラスメントを撲滅しようという意図のCMをメディアで見聞きすることが多かったように思います。いわゆる「一気飲み」も、いまでは若者たちにも支持されないどころか、あまり認知すらされていないようです。  一方、中高年の多くには、お酒で酔いつぶれて最終電車に乗れなかった、という経験が一度や二度はあるものかもしれません。かく言う私も、実は過去に3回も! しかも乗り逃したのが電車やバスではなく、いずれも中国から発つ国際便の飛行機でした。  結果、酔いも一瞬で覚めるような痛い出費をして(自腹で航空券を現地購入)、帰国の途につくというハメに…。  確かにそれはもう、二日酔いの薬なんて比ではないほどの苦い記憶です。ただし、私個人としては、それを「失態」や「粗相」とは思っていません。寛大に言わせてもらえるなら「ビジネスの一環」であり、中国という国と商売をしていくには避けては通れない道だった、とも考えています。  また決して望んではいませんが、同様のことが今後もあり得るかもしれない、という覚悟もないわけではありません。逆に言うと、対中国のビジネスでしくじった日本の人や企業は、そういう覚悟や忍耐が足りなかったのだろうと、勝手に推測しています。では、その根拠となるところを今回は綴っていきたいと思います。 筆者は大学時代に中国へ語学留学。写真は当時に旅した際の天安門(1996年)  中国(中華人民共和国)は、私どもフィールドフォース(FF社)にとっては切っても切れない国です。商品の8割以上を、同国に約30ある自社工場と協力工場で生産しているからです。現地のスタッフと工員たちの理解と協力なくして、FF社は立ち行きません。  国土は日本の25倍以上、人口は日本の10倍以上。いまでは経済においても世界1、2を争う大国となっているのが中国ですね。この程度の知識だけでは、海の向こうの隣国と商売をしていくのは困難でしょう。 『郷に入っては郷に従え』ということわざがありますが、ビジネスにおいてもそれが鉄則だと思います。まずはこちらが相手をよく知り、理解をしないことには信頼関係も築けないのです。  私が初めて中国を訪れたのは、大学時代の1990年代の後半。英語圏ではなく、あえて北京語の習得を主眼に留学したのは、人のマネごとや二番煎じを嫌う性格からでした。そして社会人になってからは、香港や台湾を含めて頻繁に中国へ渡航。現地で過ごした日数もトータルすると、数年以上になると思います。 人気の英語圏を避け、あえて北京語を学びに海を渡った大学時代。授業後も個別指導を受けていた(写真下)  これ以降は、そういう私の実体験とそれに基づく経験測です。あくまでも主観であり、中国や中国人のすべてをひと息に断ずるものではない、ということを事前にお汲み取りください。  留学した当初。若き日の私は正直、中国がなかなか好きになれませんでした。街を歩いていると、通りすがりの人から鼻水や痰をかけられることもしばしば…。後から知ったのですが、日本人が嫌悪されていたわけではありません。  中国人は屋外のどこであろうと、片方の鼻の穴を手で抑えては鼻水を吹き出し、痰をペッと吐き出すのです。それも男女や年齢を問わずで、何の悪気もない。日本人のようにテッシュペーパーで鼻をかむという、習慣そのものがないのですから仕方ありません。 中国内での旅の途中。出会った人の自宅に招かれたことも  やがてそれにも慣れてきて、中国人の友人もできて驚いたのは、彼らの情の深さです。ひとたび、意気投合して仲良くなると、それからはもう家族と同じか、それ以上の付き合いをしてくれるのです。どこまでも親身になってくれて、またどこまでも優しい。  たとえば、「春節」です。中国では1月後半から2月にかけての期間内(年により変動)に、「春節」という旧正月を祝う風習があります。日本では正月三が日は家族や親族で過ごす人が多いと思いますが、中国では異国の友人もどんどん家庭の円卓に招き入れてくれるのです。こちらが気兼ねするほど、何の壁もなく当たり前に。  また費用も時間も、気軽に行き来できないのに、私が結婚する際には「式に参加してお祝いしたい」と申し出てくれた、留学生時代の中国の友人が複数いました。ひとたび結ばれた絆は、それほど熱くて冷めないのです。  そんな中国の言葉(北京語)をある程度は話せるし、中国の文化や風習も一定の把握はしているつもり。社会人となって初めて、中国へビジネスで渡った当時、私には相応の自信や気概がありましたが、見事に粉々となりました(※コラム第2回➡こちら)。また、飛行機乗り遅れ事件を最初に経験したのも、このころです。 中国で友人宅の円卓に招かれた際の一枚。どの料理も少し残すのがこの国の礼儀  中国でお酒に酔いつぶれたことが、何度あることでしょう。正直、数えきれません。仕事絡みで中国人と円卓を囲んでいたはずが、気付けば自分の泊まっているホテルのベッドの上だった(酔いつぶれてそこまで担がれてきた)、なんてことはザラ。  私は特別に下戸でも上戸でもありません。ひと昔前までは、ほぼ毎日のように晩酌をするクチでした。つまり、アルコールを受け付けない体質ではないのです。それなのに、翌日に搭乗予定の飛行機すらやり過ごしてしまうほど、えらく酩酊してしまうのはなぜか。  その理由は、中国の宴会ではマイペースでお酒を飲むことができないからです。飲むのは主に白酒(バイジウ)という中国酒で、アルコール度数は30から60度の蒸留酒。飲み口はいいのですが、ストレートで流し込むと、やがて胃から下が燃えるような感覚に。九州や沖縄の泡盛に近い位置付けの、とても強いお酒です。 円卓では白酒に加えて、洋酒(写真)を口にすることも  ともに円卓を囲む人たちで、会話がひと段落したタイミングや、盛り上がったときに、誰からともなくグラスの底をテーブルにコツコツとぶつけます。そしてその音を合図に、グラスの白酒をストレートで飲み干す(=中国版一気飲み)というのが、中国での宴席マナー。これを場が開くまで延々と繰り返すので、よほどの酒豪でない限りは途中でダウンしてしまうのです。...

【vol.11】唯一、胸を張って誇れること

【vol.11】唯一、胸を張って誇れること

2023.12.15

 3月1日の『学童野球メディア』正式オープンに先駆けてスタートした、月イチの当連載コラム。これで11回目、2023年最後の回を迎えました。  継続的に拝読いただいている方々がいるとすれば、私のパーソナリティもおおよそはお見通しのことと思います。根っからの被虐体質で、愚直で実は打たれもろくて、油断すると弱気の虫やマイナス思考に染まってしまう。  そういうマインドを可能思考で懸命に覆しつつ、数えきれないほどの失敗と教訓も踏まえた経験則でカバー。そうしてどうにか、今日があります。 国内5つ目のボールパークを千葉県柏市にオープン、本社機能も移転して1年となる  要するに、私も取るに足らない一個の人間。「社長」という肩書きはあっても、高貴な家柄でもなければ、TVドラマのような出世競争を勝ち抜いたわけでもない。あるいは、高潔な人格者として悟りを開くようなご身分でもありません。  けれども! そんな私ですが唯一、胸を張って誇れることがあります。いや、これは自慢と言っても差し支えないでしょう。 『プレーヤーの真の力になる――』  われわれフィールドフォースの人間は、社員やアルバイトの隔てもなく誰もが、この経営理念を唱和できます。そしてそれを羅針盤として常に念頭に置きながら、それぞれに判断や選択をして行動しています。  どの拠点のどのセクションにおいても、上司の命で従順に働いているだけ、という者は皆無。各々に『プレーヤーのため』という意思が宿っていて、それが新たな発想や目に見える実行を促し、改善改良を伴う持続性にも結びついている。結果として、それらが仕事となって報酬を得ている、というスタンスの者たちです。  そういう今。現実を目の前にすることが私には至上の喜びであり、社長として何よりも誇らしく思うところです。 本社オフィスより。直接の接点はなくても、電話やパソコンの向こうにいるプレーヤーの顔が彼女にはいつも見えているようだ  たとえば、国内5つのボールパーク(全天候型練習場)では現在、『エースフォー野球塾』 という小学生対象のスクールを開校しています。「エース(ace)」とは投手の柱、「フォー(four)」とは四番打者の意。生徒と講師とでそこを目指しましょう、という願いを込めて命名したスクール事業です。  講師陣はフィールドフォースの社員たち。小学生を指導するにあたり、彼ら彼女らは私のリクエストや助言を必要としていません。内容の改善や日々の学びにも意欲的で、自らトライをしています。なぜなら、生徒たちをエースや四番打者にしてあげたい、と本気で思っているから。まさしく『プレーヤーの真の力になる』を具現しようと努めているのです。 プレーヤーの要望はボールパークにとどまらず。今年は屋外でも野球塾をスタートしている  フィールドフォースは野球用具メーカーです。私は企画会議で直接に訴えることもありますし、自分の中で最終ジャッジをする際に言い聞かせる言葉があります。 「たとえ万人に受けなくても、1人でも2人でもそれを欲している人がいるならば、創るべき!」  こうして毎月、新たなアイテムを世に生んでいます。中には思わぬ大ヒットもあり、製造停止中のものもあります。でも、何より問われているのは、売れたか売れなかったか、ではない。売り方も含めて、プレーヤーの力になれたのかどうか――。ここがブレずに来ているからこそ、ネットワークとアンテナは広がるばかりで、アイデアも新たに生まれ続けているのだと思います。 2019年5月、東京・足立区に続く2例目のボールパークを北海道・札幌にオープン  全国的に縮小・悪化する野球環境を、少しでも拡大・改善させたい。この想いから8年前に初めてオープンしたのが、東京・足立区のボールパークでした。  当初は野球塾もなく、場所と設備の時間貸しをしていました。あるとき、練習に訪れた父子の父親が野球未経験者で、息子のティー打撃もまともにサポートできないという光景がありました。  見かねた社員の一人が、その父子の練習をサポート。もちろん、無償のボランディアです。この活動がきっかけとなって、施設利用者の練習を支援する『プレーヤーサポート』という無償サービスを始めました。その後、増え続ける依頼に対応が難しくなってきたことから、スタートした事業が先述の『エースフォー野球塾』。こちらは有料ですが、月謝の額は相当に良心的な設定をしています。これらも根底にあるのはやはり「儲けよう」ではない。「プレーヤーの力に!」が第一義なのです。 ボールパーク柏の葉で開校中の『エースフォー野球塾・低学年の部』より  毎日の朝礼で、経営理念を唱和する企業は日本ではまだ多数派でしょうか。われわれフィールドフォースもそうなのですが、目的は社員に暗唱させることではない。大切なのはそれを具現することであり、そのために毎日、全員で声を合わせて確認をするのだと私は考えています。 「フィールドフォース」は社名であり、商品のブランド名。さらに意訳をすると、経営理念ともリンクしてきます。  2006年に、元同僚の2人と私の3人で創業したのがフィールドフォース。社名は3人でいろいろと出し合った末に、一発ですんなりと決まりました。 「フィールド(field)」とは、直訳すると野球場やグラウンド、野原などの意味。私たちはさらに、自社や工場や取引先や野球チームなども「フィールド」ととらえました。そして、そこで活躍する人たちのパワーやエネルギー(=force「フォース」)になりたいという想いを、そのまま社名にしたのです。...

【vol.10】“可能思考”が人生を変える《後編》

【vol.10】“可能思考”が人生を変える...

2023.11.15

 頬を射るような夜の冷気に、よく映える電飾の数々。誰でも耳に覚えのある歌の文句やメロディ。背を丸めて先を急ぐ人々も、どこか楽し気――。  クリスマスに向かって街がいっそう華やぐ季節が、間もなくやってきます。忙しなくも、浮かれ気分が度を増すなかで、私には必ず思い出す1日があります。 「花瓶まで割れてるんだ、どうしてくれるんだよ、弁償しろ! とにかく家まで来い!」  電話口の向こうで猛烈に怒鳴り散らす、お父さんの元へうかがった日。  今から10数年前のことです。当時のフィールドフォース(FF社)は社員がまだ数人程度で、クレーム対応は私の役目でした。そしてそのころは、嵐のような苦情やお叱りの声にひたすら対処する日々でした。  電話で怒鳴られるなんてざら。先方へ出向いての謝罪も10件はくだらなかったと思います。またそうしたクレームの発端が、自分の発案から世に送り出した商品であったことが、私をより凹ませ、荒んでいく心に追い打ちをかけていたのでした。 15年前の2008年当時の筆者(左上)。全国展開するスポーツチェーン店のスタッフ向けた、商品説明会  実はその商品というのが、累計の販売台数10万台超えの『スウィングパートナー』です。現在の5号機もなお、ベストセールを記録し続けるFF社の看板商品。ところが、1号機を売り出したころは、思わぬ不評とお叱りばかり。リコール(回収と修理)や生産終了を、真剣に考えざるをえない状況にまで追い込まれたのでした。  ごく簡単に説明すると、『スウィングパートナー』とは、ティースタンドのような形状で、支柱の先端がボール大の円形をしています。その円を的(ダミーボール)としてバットの芯で当てるという、素振り用の練習ギアです。 ベストセールを続ける看板商品の最新型(5号機)  ダミーボール(的)が視界にある分、何もないところで漠然とバットを振る(一般的な素振り)より効果がある。スイングの精度が上がり、打感があるので根気よく続けられる。このあたりが、多くのお客様に支持されている理由だと思います。  ただし、ユーザーの大半は幼児から小学生です。技術が伴っていないことから、ダミーボール(円)ではなく、支柱を打ってしまう(当てミス)も多々あるのです。そして支柱をバットで思い切り打つと、台座(本塁ベース型)は倒れたり、飛んでいったり。3号機からは支柱の位置を360度自由に変えられる形状へ刷新したことで、当てミスでも台座が大きく動くようなことはなくなりました。  しかし、デビュー作の1号機は、当てミスで台座が宙を飛んでしまうこともある形状でした。そしてその飛んだ台座が、近くの窓ガラスや花瓶を割るなどの物損事故と、クレームを頻発させたのでした。  息子や娘のためを思って買い与えた練習用具が、ろくに役に立たないどころか、無関係な私物を壊す始末。こんな事態に直面すれば、腹が立っても当然です。弁償を求めるのも、無理のないことなのかもしれません。 デビュー作(1号機=上)は、当てミスで台座ごと飛んでしまうことも。もし、構想段階(下)の形状で世に出していたらと考えると、もっと悲惨なことに…  クリスマスシーズンの、忘れられない例の1日。私はその日も直接に謝罪をするために、東京・北区の住宅地へと車を走らせていました。  電話口で激しく怒鳴られていたお父さんは、一軒家の主でした。対面した私がまず頭を下げる前から、怒りや興奮はすっかり覚めている様子。そして『スウィングパートナー』を使用していたという庭へ通されると、確かに割れた花瓶がありました。  次にその原因、吹っ飛んだという台座を見ると、支柱がひどく曲がっていました。使用者は小学4年生の息子とのこと。その彼が、当てミスを繰り返してきたことは一目瞭然です。 「これね、おたくの息子の技術がないことが、そもそもの原因ですよ!」  と言いたい気持ちを堪えて、最後まで平身低頭でお詫び。私はそのなかでハッと気が付きました。われわれ作り手・売り手の伝え方が甘かったばかりに、こういう事故やクレームが発生してしまうのだ、と。  商品そのものは間違いなく、技術の向上に役立つ。この自信は揺らいでいませんでしたので、販売の仕方や訴求の方法を従来と違う視点からやってみてはどうか、と考えました。そして具体的に動き始めると、沈んでいた気持ちが晴れてきて、やがて燃えるような闘志が湧いてきました。 『あなたはホームベース(台座)を動かさずに、ミートできますか?』  このキャッチコピーをパッケージにも入れて、取り扱い説明書には具体的に〇×も入れました。「〇=ダミーボールをしっかりとミートすれば、土台はほとんど動きません」「×=打つたびに台座が動く・倒れてしまう…それはミートが甘い証拠!」。これらの文言は、現在もパンフレットやHPの商品説明内にも記載しています。  訴求の方法に手を加えた効果は絶大でした。クレームは一気にゼロに! なるほど世の中、甘くありませんでしたが、件数もその頻度も減っていきました。さっきまで浜を満たしていたはずの潮が、気付けば引いて遠くにあるように。  購入した商品に不具合や事故が生じたら、良識のある大人はまず説明書を読み返すのだと思います。自分の日常生活を顧みてもやはり、そうです。目の前のクレーム対応に追われる日々だった私は、そのように自ら間口を広げて考える余裕はなかったのだと思います。...

【vol.9】“可能思考”が人生を変える《前編》

【vol.9】“可能思考”が人生を変える《前編》

2023.10.15

 あれっ、右の足首が腫れてるな――伴う痛みも、当初は辛うじて耐えられる程度。歩行時は右足を引きずるようにしながら、私は働いていました。  患部をぶつけたり、ひねったりした覚えもない。外傷もないので、そのままで目の前の業務に没頭。1週間もすると、痛みも消えていきました。ことしの3月ごろのことだったと思います。  ところが! 5月あたりになって同じ症状に襲われました。今度は右足の親指の付け根も大きく膨れあがり、足首の腫れと痛みも経験したことのないレベル。痛くて痛くて、ほとんど身動きもとれない状況でした。  たまらずに病院へ赴くと、『痛風』との診断。その裏付けともなる尿酸値が、健常者の基準をとんでもなく超えていることも判明しました。  えっ!? オレはそんなに贅沢(ぜいたく)なんか、してないけどな…嘆いてみても始まりません。そこで、意図的にこう考えるようにしました。  今で良かった、ありがとう! と。心筋梗塞や脳梗塞などの大事に発展しないように、体のほうが先にSOSを発信してくれたのだ。よし、それなら体質も改善していこう、と決めました。  夜遅くの就寝前の暴飲暴食をできるだけ避けて、朝方の生活へと緩やかにシフト。痛風の大敵という、イクラなど魚卵を口にしないよう気をつけました。  するとどうでしょう。この半年あまり、尿酸値を上げないようにする薬に頼りながらですが、あの恐ろしい痛みの再来を防げています。また、結果として体重が9㎏減って、身動きも軽くなってきた感じがしています。    マジメに懸命に働く日々の中で、突然に発症した激痛(痛風)。これを悲観したり落ち込んだりせず、先述のように前向きに考えて行動を変えることができたのは、私の中に“可能思考”というものがあるからです。  そもそもは、生来の心配性でマイナス思考だった私。小学生のころの“ジャイアン”さながらの粗暴は、自分の気持ちの弱さにフタをするための、ある種のカムフラージュだったのかもしれません(コラム第6回➡こちら)。また、高校まで熱中した野球の選手時代を振り返っても、そういう部分がプレーと結果にモロに出ていました。  小中高とポジションは捕手でしたが、一塁や三塁に相手走者がいると、投手に出すサインはストレートばかり。バウンドした変化球を体の前で止める練習も相当に重ねていましたが、本番の苦しい場面になると、それを要求する勇気がありませんでした。  とにかく、走られてピンチを広げるのが嫌で、暴投や捕逸で失点するのはもっと嫌。というより、頭に浮かんでくる次の展開が、不思議とそういう良くないものばかりで、それが現実となることを極度に恐れていたのだと思います。 先輩からも一目置かれる選手だったが、実は心は柔だった(写真は中学硬式2年時の全国大会)  打撃でもそうです。第1打席でヒットを放ったり、良い当たりを飛ばせたときには、2安打3安打と固め打ちができる。ところが、第1打席でボテゴロの凡打に終わろうものなら、負のイメージをずるずると引きずってしまい、音なしのまま終えた試合がどれほどあったことでしょう。  この今、現役の選手たちの中にも、そういうタイプが少なからずいることと思います。でも、心配することはありません。この私でも、何かにつけてのネガティブな思考回路を脱することができたのですから。  すべては“可能思考”のおかげ。では、これをいかにして知り、自分のものとして生かすことができるようになったのか。今回は出会いのほうに触れていきたいと思います。    それは元同僚の2人と、2006年にフィールドフォース(FF社)を立ち上げて間もないころ。ある知人の紹介から、創業者の3人で参加した自己啓発セミナーでのことでした。  痛風の痛みに等しいくらい、思い出したくもない厳しい研修でした。通常の本業をこなしながら、セミナーで与えられた課題に取り組む。それはまだいいとして、講師陣が高圧的で罵倒されることも多々。参加者は成熟した大人たちですから、人格も否定されるような内容に反発したり、途中で去る人も。  そんなある日の研修で、薄暗い室内で踏み台昇降運動(低い台を上り下りする)を延々とやる、というものがありました。回数も時間も指示されず。講師は「こちらから『ストップ』の指示があるまで続けてください!」とだけ言い残して、部屋からいなくなってしまいました。  10分経ち、20分が過ぎ、30分もすると、運動をやめる人もちらほら。こんな意味不明のことを、いつまでやらされるのか…ネガティブ思考の私は、不満や不安を打ち消すために、ひたすらに心を無にして運動を続けました。そして1時間したあたりで、ようやく部屋に戻ってきた講師が「ストップ!」するや、運動を放棄していた参加者を烈火のごとく罵りました。 「最初はしっかりやっていたのに途中で簡単にあきらめたあなたたちは、会社でプロジェクトを任されても同じように勝手に途中でやめるんですか!? そんなことでリーダーシップをとれるんですか!?」  一方、最後まで運動を継続した参加者は、続けた理由を聞かれました。私のような「無心」という答えも複数ある中で、一人の参加者がこう言ったのです。 「やっているうちにリズムが出てきて、自分の中で歌を歌いながらやっていたら楽しくなってきて、時間のことをほとんど忘れていました」  結局、その研修の一コマで教示されたことは、目の前のことをいかに楽しくできるか、リズムよく楽しくやれるかで結果も違ってくる。そういう発想や着眼、考え方が“可能思考”である、というものでした。...

【vol.8】安売り競争に、ドラマもハッピーもなし!《後編》

【vol.8】安売り競争に、ドラマもハッピ...

2023.09.13

 義理と人情だけでは、いずれ息切れしてしまう。ビジネスライクに走り過ぎては、人も心も動かない。フィフティフィフティで、商売はうまくいくのかもしれません。  安売り競争は結局、大手企業一社が勝ち残って甘い汁を独占することに。あとは負け組はむろん、勝者の下請けや関連業者もアンハッピーになるだけ。われわれフィールドフォース社(FF社)が、そういう世界から踏み出ることができたのは、新たな市場を自分たちで開拓したからでした。 「平日練習の市場」を切り拓いたことで、数多くの大会に協賛や出展もできている  自社ブランド品を強化し、自主練習用の道具やギアの開発と適正価格での販売を本格スタート。これが徐々に、広く支持されて「平日練習の市場」ができてきました。  そこではFF社がパイオニアで、今のところライバルも存在しません。ですから、価格を引き下げていく必要もないし、するつもりもありません。今後、新規参入があったとしても、われわれはその二歩、三歩、先の商品を適正価格で売るのみ。市場の拡大はむしろ、歓迎するべきことだと考えています。  このあたりまでは、前編(連載第7回→こちら)で書かせてもらいました。では、販売価格をいかにして守るのか。後編はそこに言及したいと思います。   『プレーヤーの真の力になる!』――。  当コラムでも何回か触れていますが、FF社の企業理念がそれです。新しい市場の開拓も、そこが出発点です。  したがって、ライバル不在だからと商品の価格を無条件に吊り上げるような蛮行はありえない。商売ですから、一定率の利益はいただきます。その上で、できるだけ全国各地のプレーヤーのみなさんに寄り添える、価格の設定(=適正価格)と維持に努めています。  そしてその「適正価格の維持」は、FF社と社員だけではなく、小売店や海外の生産工場、通関・配送の業者など、関わるみなさんを守ることにつながっています。そのみなさんを私は「FF社ファミリー」と呼んでいますが、安売りをしないことによって、一定の利益をそれぞれのファミリーにも確保してもらうことができるのです。 独自商品の適正価格を維持することが、小売店の利益を守ることにもつながる  逆に言うと、ファミリーの利益を削り取ってまで自社を繁栄させたり、大きくのし上ろうという野望はありません。一時的にはそれで富を築くことも可能かもしれませんが、長くは続かないでしょう。結果として、ファミリーが全体として少しずつ肥えていくのが理想でしょうか。もちろん、きれいごとばかりでも商売は立ち行きません。  店頭での販売価格というのは本来、小売店の自由です。商品を開発・製造したメーカーであっても、店頭での売値を指示したり、値引きを禁じたりすることはできない法律があります。  FF社も各小売店と、販売価格についての契約を交わすことはありません。けれども、どの小売店からもありがたい報告をいただきます。 「FF社の商品は、値引きをしなくても売れるので助かっています」と。  先述のように、店頭価格の設定はメーカー(FF社)にはできません。ですが、もし、値引き販売をしている小売店があれば、取引をやめればいいだけのこと。おかげさまで、そういう事態に陥ったケースは一度もありません。FF社ファミリーは、目に見えない信頼で結ばれています。だからこそ、よりお役立ちできるだろう商品を、次々とプレーヤーに届けることもできるのです。 世になかった商品を生み出しているため、販売業者への取り扱い説明も重要となる  社内事情をどこまで公にしていいものか。逡巡しますがFF社は実は、1年間の売上の約4割消滅を承知の上で、「適正価格」を守る方向へと舵を切ったのが今年のことです。  発端はコロナ禍でした。政府の緊急事態宣言による、不要不急の外出禁止や活動自粛などにより、余暇のスポーツや娯楽に携わる業界は大きな痛手を被りました。  野球界でも高校野球の甲子園をはじめ、あらゆるカテゴリーの主要な大会が軒並み中止に。屋外でのチーム練習すら許されない期間も相当に続きました。FF社が主力とする自主練習用具は、それでも売れたほうだと思います。  しかし、全体の半分近くの販売を委ねていた、某大手通販サイトからの発注がピタリと止まりました。推測でしかありませんが、おそらくはアパレルやスパイクなど、売れない在庫を大量に抱えてしまったのだろうと思います。  このまま販売を他社に頼っていたら、恐ろしいことになる。いずれは「適正価格」も脅かされるかもしれない――。終わりの見えなかったコロナ禍で、私は危機感を大いに抱きました。そして重い決断をしたのです。  販売も自社メインに切り替えていく、と。それはイコール、某大手通販サイトとの手切れを意味していました。同サイトの売り上げだけで年間の4割を占めていましたから当然、社内には反対意見もありました。そこで私は自分のビジネス哲学、前編で記したような「価格競争をしない理由」や「優れるな異なれ!」などを説いて、最終的には全社員が同じ方向を向いて一歩を踏み出しました。 コロナ禍に着工した新社屋兼ボールパーク柏の葉。物資輸送の滞りなどから工期が大幅に伸びて、2022年12月にようやくオープン  市場開拓の当初からお世話になってきた通販会社とは、1年掛かりの交渉を続けてきました。受注と生産のタイムラグや不良在庫の一掃に向けて、新たな仕組みをご提案し、最終的には「発注0」という形で取引が停止しました。...

【vol.7】安売り競争に、ドラマもハッピーもなし!《前編》

【vol.7】安売り競争に、ドラマもハッピ...

2023.08.16

 学童野球の2023年チャンピオンを決める全日本学童大会は、大阪・新家スターズの初優勝で幕を閉じました。決勝戦は私もスタジアムで観戦しましたが、先制されても動じない戦いぶり、力強いスイングに果敢な走塁、安定感抜群の守備にファインプレーの数々……。日本一にふさわしい新チャンピオンの誕生だと感じました。  スポーツの世界では、最後まで待ち抜いた者がチャンピオン。一方、大会連覇は偉業とも称えられるように、入れ替わりも激しいものです。最上級生が卒業していく学生スポーツでは、なおのことでしょう。  また、必ずしも強い者が勝つとは限らないのがスポーツの醍醐味であり、筋書きのないドラマは大きな魅力のひとつだと思います。学童野球でも、練習環境や戦力(人数)に恵まれたチームだけが、決まって日本一になっているわけではありませんね。 8月11日、大阪・新家スターズが初の日本一に(写真/福地和男)  では、ビジネスの世界はどうでしょう。何をもって「勝敗」や「王者」が決まるのか、定義からして難しいところかもしれません。そこで、「価格競争のチャンピオン」と踏み込んでみると、どうなるでしょう。この場合は残念ながら、筋書き通り。スポーツのような醍醐味もドラマもほぼありません。 「価格競争」とはつまり、安売り合戦のことで、これを勝ち抜いて最後まで生き残るのは結局、圧倒的な大量生産能力や全国一律の薄利多売網を有する大手企業でしかない。また、それでハッピーになれるのは勝ち残った大手一社のみで、関連する工場や下請け、卸売りや小売りの業者も同じくハッピーかと言えば、決してそんなことはないのが大半です。  上記は私のビジネスシーンの経験則であり、だからこそ「安売り競争は絶対にしない!」というのが、経営者として貫いている信念です。では、それでも会社が生き残るにはどうすればいいのか。実際にどのような手を打ってきたのか。当コラムを前後半の2回に分けて、詳らかにできればと思います。  われわれフィールドフォース(FF社)は野球用具を開発生産・販売するメーカーです。  たとえば、Aという商品を開発して1万円で売ると、3000円の利益が出るとします。これが1000個売れると、利益は300万円ですね。仮に、この商品Aをさらに売ろうとして単価を8000円に下げると、利益は1000円になります。1000個売れても利益は100万円。もともとの300万円の利益を確保するには、3倍の3000個を売らないといけない計算になります。  値引きだけで実際に3倍売れればいいのですが、なかなか思うようにはいかないものです。相応の広告宣伝を仕掛ける必要も出てくるでしょう。3倍売るつもりで値下げをしてはみたけれど、2倍しか売れずに利益が200万円で、当初より100万円少ない……。  わざわざ自分の首を自分で絞めにいくような、そういう顛末が珍しくありません。また、そういうアリ地獄のような穴をわかっていながらも、避けては通れずにハマり込んでしまうケースも多々あります。資本主義のビジネスは自由競争。そうでもしなければ、ライバル企業に水をあけられたり、生存を脅かされたりするからです。 2006年11月に創業したフィールドフォース。東京足立区の旧本社  話を少し戻します。値下げによるマイナス100万円分の利益。これをどうカバーするのかというと、多くの場合が「コストカット(削減)」です。響きはいいですが、悪く言えば立場の弱いところから搾り取るのが実情。下請けの工場や卸業者、小売業者を安く叩くことで穴埋めをするわけです。  そのような関係性の中で、果たして品質が向上したり、欠陥品の発生率が下がったりするでしょうか。あるいは、新しい商品Bを開発したときに、卸しや小売りの業者が飛びついてくれるでしょうか。どちらも答えは「No!」ですね。  われわれFF社自身、上記のような負のサイクル、もっと言うと「アンハッピーワールド」の中で、揉まれた約5年間があります。私個人はそれこそ何の達成感も充実感もない、無力感に苛まれる日々でした。ただし、たった3人で創業した会社が社会的な信用や縦横のつながりを築くには、必要な期間であったとも考えています。  専門用語は「OEM」と言いますが、委託先のブランド商品を生産する。創業当初はこの業務がメインでした。もちろん、それでも利益がないわけではありません。受注生産ですから、売れない在庫を大量に抱え込むというリスクも負わずに済みます。  ただし、それだけにすがっている限りは、依頼主(委託先)からいつ来るかもしれない「値下げ交渉」に怯え続けることになる。実際にそれが来た場合には、首を縦に振るしか選択肢がありません。そして問答無用の「値下げ」をされても利益を確保する(自社が生き残る)ために、海外の素材・部品メーカーや工場を叩き、通関業者や配送業者をも突いたりせざるをえない。 2022年12月、国内5カ所目のボールパークを併設する千葉県柏市の新社屋に移転。創業から5年間の「下積み」もあったからこそ今がある  大元(多くは大手企業の経営者やそのポストを狙う人物)が、己の手柄ほしさ(別の目的もあるでしょうが)に「値下げ」という舵を切った途端に、関連する企業が不幸せの色に染まっていく……。  これらは何も過去の話ではありません。現代社会でも、例のアリ地獄の穴にハマっている企業がどれだけあることか。「他社より1円でも安く」を実現するために、身を削ったり、粉にして働く方々がどんなに多いことでしょう。この夏に世間を騒がせた、某中古車販売業者内でも似たサイクルがあったのだろうと推測しています。  実はここ数年内で、FF社も某大手企業から「グラブのOEM」を打診されたことがありますが、丁重にお断りをしました。競売にかけられた上での「アンハッピーワールド」が、行く手にありありと見えていたからです。   『優れるな異なれ』――。  この言葉は後から聞いて深く共鳴したのですが、FF社が大手の下請けのような立ち位置を脱して今があるのは、まさしく「異なった」からです。  創業5年目の2010年あたりに、「OEM」から完全に脱却しました。そして自社ブランド品を強化し、自主練習用の道具やギア、その開発と適正価格での販売を始めたのです。これが結果、「平日練習の市場」を切り拓くことになりました。 自社ブランド品の企画開発会議は「ダメ出し」をしない、というルールがある...

【vol.6】涙で消えたジャイアン。学生生活の至上の一コマ

【vol.6】涙で消えたジャイアン。学生生...

2023.07.16

 高校野球の地方大会が真っ盛り。球児の汗と涙は、日本の夏のひとつの風物詩ですね。ただし、私は選手生活最後の日、高3夏の県大会で敗退した直後も泣きませんでした。  やせ我慢をしていたわけではありません。素晴らしい仲間たちと懸命に努力し、充実した2年半を過ごせたことに満足していました。負けた悔しさや、甲子園の夢が破れた悲しさよりも、翌日から待っているだろうフリータイムへの高揚感のようなものが優っていたように記憶しています。  人前でひどく叱られたり、卒業式で惜別の念に駆られたり。学生時代にはそういう経験もしていますが、涙とは無縁でした。今どきの子はどうか知りませんが、私たちの昭和末期から平成初期の時代には、学校生活で涙を見せる男子というのはほとんどいなかったように思います。  それでも私は実は一度だけ、校内で同級生を前に泣いたことがあります。今でも尊敬する亡き母(※コラム第1回参照→こちら)を偲びつつ、ここで打ち明けたいと思います。 通った都内の中学には軟式野球部がなく、学年で1人だけ硬式野球の台東ポニーでプレーした。写真は2年生当時  国や世代を超えて愛される日本のアニメ『ドラえもん』の中に、ジャイアンという手荒な少年が出てきます。  さすがにこのご時世にあって、描かれるキャラクターや言動は、信じられないほどマイルドになっていると聞き及びます。「オマエの物はオレの物。オレの物はオレの物」――昭和育ちなら誰もがピンとくる、理不尽なこの名セリフも今の子にはあまり通じないようです。  とにかく、体が大きくて、力も気も強くて、交友関係ではやりたい放題の粗暴な少年。それがジャイアンであり、中学2年生の途中までの私でした。  小学生で身長は160㎝近くあり、クラスで後ろから2番目。運動が得意で、野球の腕前も断トツのチームのキャプテン。学校でも野球チームでも、腕力にモノをいわせて好き放題の身勝手をしていたように思います。 小6の台東区陸上競技大会。学校のプラカードを持つ大柄な少年が筆者  そして近隣の複数の小学校から生徒が集まる中学校に進むと、その度合いがさらに強く。誰が一番強いんだ!?――自分以外の腕自慢たちと、あり余るエネルギーをぶつけ合い、頂点にのし上がったのが私でした。  当時はそういう意図や自覚はありませんでしたが、学年を牛耳っていた感じ。己の力を誇示したいという欲求は膨らむばかりで、力試しはやがて校内の域を超えて…。一方で、犯罪やそれまがいに手を染めるようなワルさとは無縁。校舎のガラス窓を割ったり、先生に暴力で抗うような非行少年とは違いました。また、野球では先輩からも一目置かれる存在で、学校生活でも上級生から可愛がられていました。 ジャイアンさながらに、演劇会でも皆を従えていた?(小6、左端)  私の通った中学校は、東京都の浅草界隈。満足なグラウンドがない代わりに、屋上が解放されていました。また、軟式野球部がないので私は学年で1人だけ、硬式野球クラブの台東ポニーでプレー。クラブ生は全員、五厘刈りでした。  学校では学年唯一の丸刈りは、否応なく目立ちます。しかし、「ハゲ」などの軽口や笑いが聞こえようものなら、私は容赦をしませんでした。友人には勝手に優先順位をつけており、あれこれとアゴで使ったり、理不尽を仕掛けて笑ったり。今風の言葉にするなら、周囲を「イジり倒していた」わけです。 台東ポニー時代。左から2番目の捕手が筆者。1学年上のエース・小池貴昭さん(右端)は、2013年に全日本学童8強入りした千葉・磯辺シャークスの監督を務めている  そんな息子が原因で、母が学校に呼び出されることも、たびたび。ある時は同席した友人の母親に泣かれて、このように言われたこともありました。 「あなたのせいで、ウチの子は学校に行きたくないと言っています。あなたには人の痛みがわかるの?」  さすがに悪いことをしたな、とその場では反省。でも私からすれば、じゃれ合っていただけで、相手(友人)も楽しんでいると感じていました。そしていざ、その友人を前にすると、ジャイアンは開き直って言ったのです。 「オマエの母ちゃんに泣かれちったよ」  孤独な学校生活が始まったのは、それからしばらくしてのことでした。    よく群れていた友人は10人ほどいました。ところが、いつものように近寄っても話し掛けても、誰も何も反応をしなくなってしまったのです。それもある日を境に、ピタッと一様に。  いわゆる「ハブンチョ=仲間外れ」。登校から下校まで、どこで何をするにも独りでポツン。そういう中で、救いは週末の野球でした。 中2夏の合宿にて。硬式クラブでの野球は、孤独な学校生活を忘れられる時間でもあった  硬式クラブの仲間や先輩たちは、私の学校で置かれた状況など何も知らなかったので、付き合いもそのまま変わりませんでした。結果として、この「逃げ場」がジャイアンを救ってくれた面も多分にあると思います。...

【vol.5】押しと戒めの訓。創業17年を支える哲学の祖

【vol.5】押しと戒めの訓。創業17年を...

2023.06.15

「フィールドフォースさんはいいですね、やりたいことがお好きなようにできて」  皮肉めいた妬みでも、尾を引くような嫉みでもない。それが率直な感想だったのだと思います。  千葉県の柏市長(当時)と面談したのは2年半ほど前。クリスマスイヴの日だったので、余計に覚えているのかもしれません。思いがけぬ投げ掛けにいささか高揚する私に、市長がこう続けました。 「逆に役所というのは、トライ&エラーは許されないんです。失敗をしないために、たくさんの調査をして分析や評価をして、根回しもしてからでないと物事が動いていきません…」  われわれフィールドフォース(FF社)は、昨年の暮れに柏市内にボールパーク柏の葉をオープンし、東京都の足立区にあった本社機能もそこに移しました。市長と面談したのは、市営の富勢運動場野球場について5年間のスポンサー契約をするため。同球場は今、「フィールドフォースB-SITE TOMISE」として稼働しています。  本社機能を伴うボールパーク柏の葉(下)のオープンは2022年12月。所在地となる千葉県柏市とはそれに先駆けて2年前からスポンサー契約を結び、富勢野球場が「フィールドフォースB-SITE TOMISE」に(上)  市長が漏らした感想は、私にとっては最大級の賛辞でした。「やはり、役所はたいへんなんですね」くらいしか返せませんでしたが、心の内で燃えてくるものがありました。FF社は民間企業の中でも「トライ&エラーが許される」組織であるのは事実。むしろ、それを社内で推奨し、率先してきているのが社長のこの私なのです。  偉そうに社長業を語るつもりはありませんが、私の日々は選択の連続です。時にある大きな決断も含めて、ためらったり、迷っている暇がほとんどありません。社業がある程度の軌道に乗ってからは、常に選択、選択を迫られて生きてきています。  それでも仲間2人との創業から17年、今日があるということは、少なくとも選択をしくじってばかりではなかったのだと自負しています。もちろん、失敗は山ほど、苦い経験も数えきれません。選択肢に囲まれる毎日はまた、思うようにならないことで埋もれていきます。しかし、それでも必ずどこかに光がある。漆黒の闇ではないから、突っ走るべき道が輝いて見えてくるのかもしれません。   そしてそんな私の背中を押してくれる、座右の銘がこれです。 『巧遅(こうち)は拙速(せっそく)に如(し)かず』――。  この言葉を知った経緯やタイミングは自分でもよくわかりません。でも、とにかく、いつもこの言葉に励まされてきているのは確かです。  あらためて調べてみると、出典も諸説あるとのこと。500年前の中国の春秋時代に名将が残した兵法書にある言葉で、『戦いは多少の問題があろうと素早く行うのが良くて、長期化させても良いことはない』という解釈が一般的なようです。  私は勝手に、こういう意訳をしてきました。たとえ上手でも遅いというのは、少々は粗悪でも早いことには及ばない。この考えが選択の日々の根本にあります。『巧遅は拙速に如かず』が批判に用いられたり、真逆を唱える経営者もまたたくさんいることでしょう。是非を論じるつもりはありません。ここから先は私の考え方と経験則、哲学的な話になります。 トライ&エラーの「エラー」はサクセスへの手掛かり。クレームも独自商品をブラッシュアップしてくれる。写真は6月14日配信の『練習の質向上会議』より。右端が筆者  目の前の選択肢に対して、時間をかけて検討や熟慮をした結果、何も選ばない。ハイリスクに怯えて足がすくんでしまう、というのは私にとって最悪の決断。熟考の末に「楽なものを」という選択は次悪の決断です。難易度を選ぶ基準とした時点で、夢や希望といったものが一気に薄れてしまい、義務感で着手しても結果が出るどころか、達成感や充実感も何ら得ることなく、元の木阿弥に。  やってもムダだったね、というオチ。またそこに至るようなサイクルは、私が最も避けたいところ。それならば最初から何もやらないほうがいいし、負のサイクルに陥るとチャレンジ精神がどんどん損なわれてしまいます。人はじっくりと時間をかけて考えるほど、腰が重くなってきて楽なものを選びがち、というのが私の経験則です。 毎月生むアイテムの目標は3つ。発売がゴールではなく、改善改良を重ねていくので「失敗作」という概念が基本的にない。写真左は筆者、右は秋山浩保柏市長(2021年当時)  では、私の選択が完璧なのかというと、決してそんなこともない。だからこそ、戒めや教訓として『巧遅は拙速に如かず』を己に言い聞かせるのです。複数の選択肢がある中で、一番自分が不得意で、ちょっと厳しいだろうなというものを行動力でまずやってみる。多少は拙くても時間をかけずにトライする。そしてうまくいかなければ、やり方を変えて、またやり直せばいい。  その繰り返しで人は成長して、価値や魅力が向上していくのだと思います。無意識にそういう選択ができるようになるのが私の究極の理想で、ここにきてようやく、理想に足を踏み入れられてきたような気がしています。若干の負荷がかかる選択をスムーズにできるようになってきているからです。  選択の後にカギになるのが、優先順位。物事は大半が同時進行している中で、すべてに同じ力量を注ぎ込むのは不可能です。そこで優先順位の高いものから、自分の労力やスキルを投入していく。ここまでは無意識でできるようになってきたのかもしれません。  そしてその上で、私が意識的にしているのは「公言」。まずは決断(無意識の選択)を広くみなさんに聞いてもらう。そしてその道を得意分野とする人や、興味を持ってくれる人たちを巻き込んで、小さなグループや組織として着手していく。直近でいうと、この『学童野球メディア』がまさにそれです。  みなさまへ決意表明をしてから3カ月強。まだまだゴールは果てしなく遠いところにありますが、頭の中で描いていたものが少しずつ絵になってきたようです。おぼろげながら、輪郭を持ち始めていることに喜びを感じています。私も編集部も希望と気概に満ちています。前例になかったものを形にせんと、トライを重ねています。  では最後に、社長として最低限の規範をひとつ。どんなに選択に迫られて、時間も余裕もまるでないとしても、私に声を掛けてくれた相手には誠意をもって対応すること。特に社内においては、これを肝に銘じています。...

【vol.4】モノを売るだけではない。コトからの提案が、球界の未来をも照らすと信じて

【vol.4】モノを売るだけではない。コト...

2023.05.15

 お父さんお母さんに、幼い息子と娘。その一家が、われわれのボールパーク足立にフラっとやってきたのは1年以上前。冬の寒い日のことだったと思います。 「すみません、子供たちだけを家に置いてくるわけにはいかなかったもので」と、幼子たちの手を引く母は英語の塾の先生とのこと。保育士をしているという父が、私にこう続けました。 「こういうボールパークみたいな施設を作って、家族で運営したいと思っているんです!」  アポイントがあるとかないとか、そんなのはどうでもいい。夢を叶えようと家族全員で足を運んできてくれた、それだけで私の血が騒ぎだしました。ボールパークのような施設を新たに生む。これはフィールドフォース(FF社)のミッションコピーにも重なります。 『現代の練習環境を変革する!!』 本社機能も移設した直営の5号店、ボールバーク柏の葉の2階へ通じる階段の踊り場に、社のミッションコピーを掲げている  1週間後。夫婦が候補地としていた場所(建物)へ私も赴きました。そこはタクシー会社の跡地。管理する不動産会社にも出向いた結果、屋根が違法建築で用途地域(都市計画法に基づく土地利用の区分)にも適さないのでNGに。その日以降も、候補地巡りに帯同をすること、ついに4件目。埼玉県上尾市の商業地の一角に落着したのが、今年の2月でした。  箱が決まったら、こんどは中身のほうです。まずは夫婦が思い描く城に屋内の形状やサイズ感を照合しながら、可能なレイアウトを私から提案。さらに仮の施工スケジュールを組み、概算の見積りも提出しました。  脱サラしてのチャレンジは、人生を大きく左右するものです。軽々に結論が出るはずがありません。私もそこまで立ち入ったり、急かしたりはしません。ただし、着工からオープンまでの流れや収支の基準など、経験則から具合的な話をして不安を和らげてあげることはできます。 候補地を巡ること4件目、埼玉県のバリュープラザ上尾愛宕店の2階に箱が決まった  正式な発注が夫婦からあったのは、今年の3月半ばでした。私は速やかに諸々の材料を発注。同時に、各施工業者へ正式に依頼をかけました。もう後戻りはできません。夫婦はFF社のボールパーク柏の葉へも研修に訪れ、実際に売り場にも立ってお客様の受付や室内練習場へのご案内方法、打撃マシンの調整方法などもしっかりと学んでいきました。  そして4月6日に電気工事が始まり、最後の内装まで終わったのが同28日。機材や備品などの搬入と設置も済ませて5月1日、晴れて『WISE BaseBall Filed』がグランドオープンしました。これに先立って、私は夫婦へ次のように「想い」を贈りました。 「施設を宣伝するのにSNSも含めて発信されるときには、ウチ(FF社やボールパーク)の名前も出してもらって構いません。実際、これまで一緒にやらせてもらいましたし、遠慮せずにウチの名前もどんどん使ってください」  経営は完全に別。つまり、夫婦の上尾の施設はFF社の直営ではありません。でも、それで何の問題があるというのでしょう。直営であろうとなかろうと、ボールパークのような練習場が増えることは、野球界にとってプラスでしかありません。そしてそれは社の経営理念『プレーヤーの真の力になる』ことにも結びつきます。 この5月1日、埼玉県上尾市にオープンしたWise Baseball field。写真上が施工中、下が完成後。「想い」で結ばれた人脈と8年超のノウハウを結集し、3週間強の工期を実現した  昭和の時代には、人口が密集する都市部とベットタウンにもあった空き地や広場。これらに代わる「場所」を、全国の野球少年・少女たちに提供する。こういうコンセプトの下、ボールパークの第1号を東京都の足立区にオープンしたのは2016年のことでした。  いつでも空いていれば、誰でも自由に使える屋内練習場。無料とはいかないが天候に左右されず、音も人の目も気にせず、やりたい練習に打ち込める。そういう民間施設は私の知る限り、他にありませんでした。それが証拠に、足立の1号店には遠方から車や電車でやってくる人も絶えなかったのです。  前例がないということは、専門の施工業者もいません。新しいことにチャレンジするのは私のモットー。とはいえ、やるは難し。見切り発車した足立のボールパーク事業は、電気工事、人工芝、防球ネット、内装の各業者をインターネットで検索することから始めました。どの先方にとっても、ほぼ経験のない屋内練習場です。私の「想い」に耳を傾けてくれる業者がいれば、すぐにそっぽを向かれてしまうことも。最終的には相見積もりの上で決定させてもらいましたが、もう二度としたくないというほど長くて険しい道のりでした。 民間ではほぼ前例のなかった全天候型の練習場「ボールパーク」の第1号店を2016年、東京都足立区にオープン  施工期間は半年以上。先の上尾の施設の数倍です。各業者には、屋内で野球の練習をするのにベストな答えを導く作業から付き合ってもらいました。例えば「照度」。これは照明の明るさのことですが、電灯の種類や配置だけではなく、防球ネットの有無でも数値が簡単に変動します。ということは、電気工事より先に防球ネットを張ってテストをする必要がある。しかし、防球ネットを張ってしまうと、人工芝を敷けないし、電気工事もできなくなる…。こういう堂々巡りもあって工期がどんどん伸びて、費用もふくれていきました。  ただし、どの業者も私のリクエストに対して「無理です!」「できません!」とは言いませんでした。畑は違っても、「想い」は通じる人には通じるのです。彼らはその後の2号店、3号店から直近の上尾の案件まで、変わることなく頼れるパートナーであり続けてくれています。新たなボールパークに着手するたびに、より良い仕様へとマイナ―チェンジができているのも、彼らの存在があればこそ。上尾の3週間強という工期も、彼らなしには不可能でした。 ボールパーク足立の施工中。すべてが「無」の状態で業者探しからスタートし、テストも繰り返しながらの工期は予定を大きくオーバーして半年以上に...

【vol.3】異国の師匠とプレーヤー。三位一体で成す“唯一無二”の武器

【vol.3】異国の師匠とプレーヤー。三位...

2023.04.13

 コロナ禍の終焉はしていませんが、海外からの観光客も日本各地に戻ってきたというニュースを耳にするようになりました。まだ少し先になりそうですが、われわれフィールドフォース(FF社)でも、中国から研修生の受け入れを復活したいと考えています。  世界が新型コロナウイルスに冒される以前は、中国の協力工場のスタッフたちを定期的に日本に招いていました。周知のとおり、今や中国は世界1、2の経済大国ですが、「野球」においては途上国以前。先の第5回WBCには参戦しましたが、国民は「野球」をまだまだ理解していないのが実情です。  そういう国にあって、野球のグラブや打撃マシンや練習ギアなど、FF社の独自のアイデアをまずは「形」とし、さらに「商品」へと仕上げてくれる工場。そこで精を出すスタッフは、FF社にとって不可欠なプレーヤーです。 コロナ禍前までは、中国の協力工場の同志たちを定期的に日本に招いてきた。写真は2018年9月、左からミッキー、シャオミャオ  中国で働く彼ら彼女らが手掛けた「商品」が、日本でどのように売られて、またどのように使われているのか。「野球」というスポーツが、日本でいかに愛され、親しまれているのか。これらを実際に、来て見て知って感じてもらうことは、双方にプラスでしかないと私は考えています。  シャーロン(Sharon)、キャロル(Carol)、ミッキー(Mickey)、サニー(Sunny)、シャオミャオ(Xiaomiao)、トレーシー(Tracy)、スーサン(Susan)、アシュリー(Ashley)。日本人はほぼ使いませんが、アジア圏の国の多くは、こうしたイングリッシュネームで海外(特に対英語圏)とやりとりする習慣があります。  名前を挙げた8人はみんな台湾・中国人で、現地スタッフの中でも私の大切な同志たち。香港島のほぼ真上(北)に位置するシンセン(深圳)、台湾に対面するアモイ(廈門)をそれぞれ拠点に、全部で30近くある協力工場の先導や管理をしてくれています。  私は「吉村」という姓の中国語読みで「ジィツン(Jicun)」と呼ばれており、コロナ禍でも365日、必ずこの8人の誰かとウィーチャット(WeChat)や電話でやりとりをしていました。海の向こうの言葉も文化も異なる工場と、ダイレクトに日常的に意見交換や意思疎通ができる。商社も介さない、第三者が入り込む余地もない、この関係性こそが、実はFF社の最大の強みです。 野球をほぼ知らない国の同志に、日本で野球を見てもらうのも意義がある  例えば、この2月に中京大中京高校(愛知)の女子軟式野球部員が、来社して新商品「更衣テント」のプレゼンをしてくれました(「学童野球メディア」リポート→こちら)。私はその日のうちに、同志のキャロル(Carol)に電話をして北京語でこう伝えました。 「日本の女子高生たちが勇気を持って、社まで足を運んでプレゼンをしてくれたので、何とかそのアイデアを形にしたい。協力してくれないか」  すると、すぐに試作品に取り掛かってくれました。私からのこの手のリクエストは頻繁ですが、同志たちに拒まれたり、見返りの上積みを求められたりしたことは一度もありません。  それは、なぜか? 私が有無を言わせぬ親会社のボスだから? いえいえ、まったく違います。日々のコミュニケーションを密にしながら、新しい企画やアイデアを共有し、ともにチャレンジをしている同志だから、です。協力工場はどこも開発意欲が高く、少量でも付加価値の高いものを売っていこうという方針で、FF社の想いとも十分に重なっています。  海外で安価なものを大量生産して日本で売りさばく、という時代はもう終わりました。土地も物価も人件費も上がるばかりの中国では採算が合わないと判断し、生産拠点を東南アジアへ移設するという日本企業の動きが近年は加速しています。  一方、われわれFF社には価格競争をする相手もおらず、生産拠点を転じる必要性が生じていません。独自性のある、唯一無二の商品で勝負をしているからです。創業から17年かけて、同志たちと培ってきた開発製造のノウハウや文化は、昨今の緊迫した国際情勢にあっても何ら揺らいでいません。 コロナ禍前までは毎月、社長自らも中国へ。写真は恵州(けいしゅう)の自社ネット協力工場での研修時  ビフォー・コロナ。新型コロナウイルスの蔓延前までの私は毎月、中国に渡っていました。日本の25倍とも言われる国土を巡り、協力してもらえる工場を地道に開拓。その際に必ず車のハンドルを握り、各地でアテンドをしてくれた台湾人の恩人がいました。彼は工場でのモノづくりや生産工程なども、細かにレクチャーをしてくれた、私にとっての師匠でもあります。  名前はジミー(Jimmy)。そう、社会人ルーキーの私を「魔の二週間」(コラム第2回参照)のトラウマからも救ってくれた恩人です。出会いからFF社創業までの7、8年の間にも、私たちは幾度となく中国で仕事をしながら信頼関係を築いていきました。脱サラを決めた私が一番に相談したのもジミーさん。  すると「わかった、一緒にやろう!」と、FF社のためにファイナンス系の会社を新たに起ち上げてくれました。同社は、中国に数あるFF社の協力工場の指導や品質管理のほか、商品代金の支払いなども一括して代行。ジミーさんの「恩」は尽きませんが、何より大きかったのは代金を支払うサイト(猶予期間)の延長でした。  一般的に日本の取引先の支払いサイトは90~120日なのに対して、中国工場へは商品を船積みした日から「15日」しかありません。この大きな隔たりが、資本金も潤沢でない日本の新興企業には重大なネックになるのですが、ジミーさんは私たちを慮って猶予を自ら「120日」としてくれました。この厚情がなかったら、今のFF社は存在していないはずです。 「恩人」であり「師匠」でもあるジミーさん。コロナ禍前までは夫妻を日本に招待してきた  実績もなく、未来も不透明だったFF社に対して、ジミーさんはなぜ、そんなにも親身になってくれたのでしょう。あくまでも私の主観ですが、社会に出て間もない20歳そこそこの日本人(私)が、拙い北京語を懸命に使いながらドロくさく働き倒す姿を見て、気に入ってくれたのかもしれません。 「ヨシムラさん、早く寝なさい」  日本語も話せるジミーさんは、若かりしころの私によくそう言って励ましてくれたことも思い出しました。数々の恩にまだまだ報いきれてはいませんが、研修生の受け入れもご恩返しのひとつ。『プレーヤーの真の力になる!』を理念とするFF社が、中国の同志たちも「プレーヤー」と位置付けているのは、そういう理由もあるからです。  (吉村尚記) ジミーさん夫妻とは家族ぐるみの親交。筆者の息子たちは毎年の夏休みに台湾のジミーさん宅にホームステイしてきた

【vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼りは野球経験、救いは総経理の「金言」

【vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼...

2023.03.16

【社長コラム】第2回    今どきの若者なら「意味不明」の4文字。英語圏では「No understand!」だけで通じるかもしれません。中国語ではそれを「听不懂(ティンブドン)」と言います。発音の表記は「Ting bu dong」ですが、実はこのフレーズが私の人生にとって最大のトラウマでした。    あれほどに打ちのめされたことは、後にも先にもないと思います。忘れようにも忘れられない「魔の二週間」。私は中国人たちから「ティンブドン!(直訳:あなたの言っていることが理解できません)」を、浴びせられ続けたのです。このフレーズを聞くたびに自信が失せてゆき、やがては体がぶるぶると震えるほど追い詰められることに。  そんな「魔の二週間」を体験したのは、大手の野球用具メーカーに就職して間もないころでした。大学時代に中国へ留学し、北京語(中国・台湾で概ね通じる言語)の日常会話をマスターした(つもりでいた)私は、さっそく社から中国出張の命を受けました。  課された任務は、リタイアしたばかりの日本人の職人の現地アテンド兼通訳。中国にある社の硬式ボール製造工場で2週間、その職人さんには講師を務めていただくことになっていました。    今から思えば、はなはだ無茶な話です。入社したての私にボール製造の知識があるはずもなく、北京語のレベルも日常会話程度でしかなかったのです。にもかかわらず、怖いものを知らない社会人1年生は使命感に燃えて機上の人に。 「ティンブドン!」  いざ、中国の工場で始まった研修は遅々として進まず、例の単語ばかりが工員から口々に発せられました。それはすべて、職人さんが発する専門用語を北京語に訳せない私に向けられたのでした。  羊の毛の番手(太さ)だとか、接着剤や薬品の種類だとか、日本語でも初耳という単語が少なくない。それをさらに外国語へ変換なんて、できるはずがなかったのです。この段になって初めて、己の場違に気づいた青二才は、逃げだしたい衝動にも駆られました。 2006年にフィールドフォースを創業し、中国・台湾との往来がさらに頻繁に。写真は中国・深圳(しんせん)の自社マシン協力工場での研修時    どうしよう、どうしよう。オレにはこの仕事は向いてない。違う道に行ったほうがいいのかな――。震える体に騒ぎだした弱気の虫。辛うじてそれを抑え込み、私は大汗をかきながら通訳を続けました。ボディランゲ―ジと辞書を用いて、メモ書きをしまくりながら。今ならインターネットやデジタル辞書や自動翻訳の端末が助けになるでしょうが、そういう類いも一切なかった25年ほど前のことです。  幸いにも、講師役の職人さんは怒るどころか、逆に親身になってくれました。異国の工員たちに何とか理解をしてもらおうと、率先して簡単な言葉や表現を使ってくれるように。そうしてどうにかこうにか、予定の14日間が過ぎました。    ふと、今も考えることがあります。「魔の二週間」の中で、実際に逃げだしたり、ギブアップをしなかったのは、なぜか。自身をそこに滞留させる力となったものは、何だったのだろう、と。  答えはひとつではありませんが、確実に作用していたのは野球の経験です。3割打者でも7割は打ち損じる、という失敗の多いスポーツ。これを高校まで懸命にやってきたことで、いちいち挫けない鋼のような耐性が自ずと形成されていたのかもしれません。それが証拠に、ぶるぶると怯える自分に失望を感じつつ、一方では悔しさを募らせてもいたのです。  悔恨と羞恥をエネルギーとして、帰国後は野球用具各種の素材から製造工程まで、自主的にどんどん学んでいきました。北京語へ置き換えもしながら。社会に出てすぐに、荒波以上のアウエーの地で無知と無力を自覚できたことは、かけがえのない財産になったと思っています。  とはいえ、トラウマはそう簡単に払拭できるものではありません。独学で知識を蓄えるにも相応の時間が必要です。しかし、「魔の二週間」で負った傷がまだ生々しいうちに、再び海外出張の命がくだりました。今度は台湾です。 「吉村さん、あなたは中国人ではありません。だから、100%の中国語を話せるわけがありません。それでも、日本人なのに中国語を使っている。それだけですごいことなんです! 言い間違いなんて当たり前。自信をもってやってください」  2度目の海外出張、不安げな日本のグリーンボーイを北京語でそう励ましてくれたのは、取引先だった台湾の商社の社長でした。まさしくそれが「金言」に。私はどれだけの勇気をもらい、またどれだけ、心を軽くしてもらったことでしょう。...

【vol.1】ラッキーナンバーは「2」 天の母君(ははぎみ)に捧ぐ、誇り

【vol.1】ラッキーナンバーは「2」 天...

2023.02.16

【社長コラム】第1回    目配り、気配り、思いやり――。キャッチャーの経験者であれば、一度は聞いたことがあるフレーズだと思います。中には耳にタコができるほど聞かされて閉口し、自ら別のポジションに転じたという人もいるかもしれません。    私の現役時代はずっと、キャッチャーでした。視界の広さも耳から入る情報も断トツの「扇の要」は、「女房役」とも言われます。ピッチャーの機微にも注意を払いつつ、事前に準備したデータや作戦に経験則も踏まえ、1球ごとにリードをしていきます。そして相手打者を抑えれば、真っ先にピッチャーを称え、逆にやられることがあれば自ら非を被る。高校野球ともなれば、それくらいの覚悟は必要かもしれません。    正捕手の背番号でもある「2」。これを今でも自分のラッキーナンバーとしているように、私には引き立て役、人さまのお役に立つということが性に合っているようです。振り返ってみると、そういう適性は少年から青年にかけての時期に、自然に備わったのだと思います。    可視化はできない人格の形成において、おそらく最も影響を受けたのは、母親です。私がこの世で最も尊敬する人ですが、残念ながらもう会うことはできません。今から17年前、不治の病に冒されて64年で生涯の幕を閉じました。    その母を見送ったときの私は30歳、5月のことでした。たとえようのない失意と悔いに苛まれながらも、よっしゃ、やってやるか! と職場の仲間と脱サラしてフィールドフォースを立ち上げたのが同年11月のことでした。    母はいったい、何のために生きてきたのだろう。ふと、今も思いを巡らせることがあります。まさしく「無私の愛」を、私と3つ上の兄に捧げ続けてくれたからです。    父親は母よりずっと早くに他界。私は物心ついたころから、いわゆる母子家庭で育ちました。今から思うと、生活は相当に困窮していたはずです。しかし、食べ盛りの兄弟2人はひもじい思いなど、まるでしませんでした。母が3つの仕事を掛け持ちしていたおかげです。昼間はビルの清掃など2つの職場を梯子して、帰宅後は兄弟のために食事をつくり、夜からはファーストフード店の清掃へ。    丸一日を家庭で過ごすなんて、なかったように思います。それなのに、私たち息子の前では、いささかも疲れた顔を見せず、勉強や家事手伝いを命じるようなことも一切なく。兄弟の進路についても「いいじゃない!」と、本人の判断を追認してくれるのみでした。    そんな母をたいへんだな、と思いつつも、それを言葉に出すでもなく、行動でフォローするわけでもない、青臭い私がいました。高校は野球推薦で千葉県の私立校へ。母の手製おにぎりを毎日5個持って出かけ、大好きな野球に2年半、没頭しました。    朝は始発の電車に乗って集合の駅に向かい、そこから学校まではランニング。練習後におにぎりを2個食べて、10時半にもう1個。野球部員にサービス旺盛な食堂で昼に特盛のカレーライスをたいらげて、6時間目の授業が終わってからの練習は夜の8時くらいまでやっていました。その後に、おにぎりをまた2個。そして下校後は、野球部の仲間とトレーニングジムでフィジカルを鍛え、帰宅は早くても夜の11時過ぎ。働き倒している母とは、すれ違いの生活でした。    大学へも通わせてもらった私は、さらに海外(中国)へも留学。そして野球用具メーカーの営業マンとなってからはようやく、人並みに親孝行をしてきたつもりでした。しかし、いざ、目の前から母がいなくなってしまってからは後悔ばかり。   「親孝行、したいときに親はなし」とはよく言ったものです。直接に恩を返せることは、もう永遠にないのです。一目でも一言でもいいから、再び顔を見合わせて、肉声を交わすことができたなら…。  ...