社長コラム

【Vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼りは野球経験、救いは総経理の「金言」

【Vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼...

2023.03.16

【社長コラム】第2回    今どきの若者なら「意味不明」の4文字。英語圏では「No understand!」だけで通じるかもしれません。中国語ではそれを「听不懂(ティンブドン)」と言います。発音の表記は「Ting bu dong」ですが、実はこのフレーズが私の人生にとって最大のトラウマでした。    あれほどに打ちのめされたことは、後にも先にもないと思います。忘れようにも忘れられない「魔の二週間」。私は中国人たちから「ティンブドン!(直訳:あなたの言っていることが理解できません)」を、浴びせられ続けたのです。このフレーズを聞くたびに自信が失せてゆき、やがては体がぶるぶると震えるほど追い詰められることに。  そんな「魔の二週間」を体験したのは、大手の野球用具メーカーに就職して間もないころでした。大学時代に中国へ留学し、北京語(中国・台湾で概ね通じる言語)の日常会話をマスターした(つもりでいた)私は、さっそく社から中国出張の命を受けました。  課された任務は、リタイアしたばかりの日本人の職人の現地アテンド兼通訳。中国にある社の硬式ボール製造工場で2週間、その職人さんには講師を務めていただくことになっていました。    今から思えば、はなはだ無茶な話です。入社したての私にボール製造の知識があるはずもなく、北京語のレベルも日常会話程度でしかなかったのです。にもかかわらず、怖いものを知らない社会人1年生は使命感に燃えて機上の人に。 「ティンブドン!」  いざ、中国の工場で始まった研修は遅々として進まず、例の単語ばかりが工員から口々に発せられました。それはすべて、職人さんが発する専門用語を北京語に訳せない私に向けられたのでした。  羊の毛の番手(太さ)だとか、接着剤や薬品の種類だとか、日本語でも初耳という単語が少なくない。それをさらに外国語へ変換なんて、できるはずがなかったのです。この段になって初めて、己の場違に気づいた青二才は、逃げだしたい衝動にも駆られました。 2006年にフィールドフォースを創業し、中国・台湾との往来がさらに頻繁に。写真は中国・深圳(しんせん)の自社マシン協力工場での研修時    どうしよう、どうしよう。オレにはこの仕事は向いてない。違う道に行ったほうがいいのかな――。震える体に騒ぎだした弱気の虫。辛うじてそれを抑え込み、私は大汗をかきながら通訳を続けました。ボディランゲ―ジと辞書を用いて、メモ書きをしまくりながら。今ならインターネットやデジタル辞書や自動翻訳の端末が助けになるでしょうが、そういう類いも一切なかった25年ほど前のことです。  幸いにも、講師役の職人さんは怒るどころか、逆に親身になってくれました。異国の工員たちに何とか理解をしてもらおうと、率先して簡単な言葉や表現を使ってくれるように。そうしてどうにかこうにか、予定の14日間が過ぎました。    ふと、今も考えることがあります。「魔の二週間」の中で、実際に逃げだしたり、ギブアップをしなかったのは、なぜか。自身をそこに滞留させる力となったものは、何だったのだろう、と。  答えはひとつではありませんが、確実に作用していたのは野球の経験です。3割打者でも7割は打ち損じる、という失敗の多いスポーツ。これを高校まで懸命にやってきたことで、いちいち挫けない鋼のような耐性が自ずと形成されていたのかもしれません。それが証拠に、ぶるぶると怯える自分に失望を感じつつ、一方では悔しさを募らせてもいたのです。  悔恨と羞恥をエネルギーとして、帰国後は野球用具各種の素材から製造工程まで、自主的にどんどん学んでいきました。北京語へ置き換えもしながら。社会に出てすぐに、荒波以上のアウエーの地で無知と無力を自覚できたことは、かけがえのない財産になったと思っています。  とはいえ、トラウマはそう簡単に払拭できるものではありません。独学で知識を蓄えるにも相応の時間が必要です。しかし、「魔の二週間」で負った傷がまだ生々しいうちに、再び海外出張の命がくだりました。今度は台湾です。 「吉村さん、あなたは中国人ではありません。だから、100%の中国語を話せるわけがありません。それでも、日本人なのに中国語を使っている。それだけですごいことなんです! 言い間違いなんて当たり前。自信をもってやってください」  2度目の海外出張、不安げな日本のグリーンボーイを北京語でそう励ましてくれたのは、取引先だった台湾の商社の社長でした。まさしくそれが「金言」に。私はどれだけの勇気をもらい、またどれだけ、心を軽くしてもらったことでしょう。...

【Vol.1】ラッキーナンバーは「2」 天の母君(ははぎみ)に捧ぐ、誇り

【Vol.1】ラッキーナンバーは「2」 天...

2023.02.16

【社長コラム】第1回    目配り、気配り、思いやり――。キャッチャーの経験者であれば、一度は聞いたことがあるフレーズだと思います。中には耳にタコができるほど聞かされて閉口し、自ら別のポジションに転じたという人もいるかもしれません。    私の現役時代はずっと、キャッチャーでした。視界の広さも耳から入る情報も断トツの「扇の要」は、「女房役」とも言われます。ピッチャーの機微にも注意を払いつつ、事前に準備したデータや作戦に経験則も踏まえ、1球ごとにリードをしていきます。そして相手打者を抑えれば、真っ先にピッチャーを称え、逆にやられることがあれば自ら非を被る。高校野球ともなれば、それくらいの覚悟は必要かもしれません。    正捕手の背番号でもある「2」。これを今でも自分のラッキーナンバーとしているように、私には引き立て役、人さまのお役に立つということが性に合っているようです。振り返ってみると、そういう適性は少年から青年にかけての時期に、自然に備わったのだと思います。    可視化はできない人格の形成において、おそらく最も影響を受けたのは、母親です。私がこの世で最も尊敬する人ですが、残念ながらもう会うことはできません。今から17年前、不治の病に冒されて64年で生涯の幕を閉じました。    その母を見送ったときの私は30歳、5月のことでした。たとえようのない失意と悔いに苛まれながらも、よっしゃ、やってやるか! と職場の仲間と脱サラしてフィールドフォースを立ち上げたのが同年11月のことでした。    母はいったい、何のために生きてきたのだろう。ふと、今も思いを巡らせることがあります。まさしく「無私の愛」を、私と3つ上の兄に捧げ続けてくれたからです。    父親は母よりずっと早くに他界。私は物心ついたころから、いわゆる母子家庭で育ちました。今から思うと、生活は相当に困窮していたはずです。しかし、食べ盛りの兄弟2人はひもじい思いなど、まるでしませんでした。母が3つの仕事を掛け持ちしていたおかげです。昼間はビルの清掃など2つの職場を梯子して、帰宅後は兄弟のために食事をつくり、夜からはファーストフード店の清掃へ。    丸一日を家庭で過ごすなんて、なかったように思います。それなのに、私たち息子の前では、いささかも疲れた顔を見せず、勉強や家事手伝いを命じるようなことも一切なく。兄弟の進路についても「いいじゃない!」と、本人の判断を追認してくれるのみでした。    そんな母をたいへんだな、と思いつつも、それを言葉に出すでもなく、行動でフォローするわけでもない、青臭い私がいました。高校は野球推薦で千葉県の私立校へ。母の手製おにぎりを毎日5個持って出かけ、大好きな野球に2年半、没頭しました。    朝は始発の電車に乗って集合の駅に向かい、そこから学校まではランニング。練習後におにぎりを2個食べて、10時半にもう1個。野球部員にサービス旺盛な食堂で昼に特盛のカレーライスをたいらげて、6時間目の授業が終わってからの練習は夜の8時くらいまでやっていました。その後に、おにぎりをまた2個。そして下校後は、野球部の仲間とトレーニングジムでフィジカルを鍛え、帰宅は早くても夜の11時過ぎ。働き倒している母とは、すれ違いの生活でした。    大学へも通わせてもらった私は、さらに海外(中国)へも留学。そして野球用具メーカーの営業マンとなってからはようやく、人並みに親孝行をしてきたつもりでした。しかし、いざ、目の前から母がいなくなってしまってからは後悔ばかり。   「親孝行、したいときに親はなし」とはよく言ったものです。直接に恩を返せることは、もう永遠にないのです。一目でも一言でもいいから、再び顔を見合わせて、肉声を交わすことができたなら…。  ...