社長コラム

【vol.6】涙で消えたジャイアン。学生生...
高校野球の地方大会が真っ盛り。球児の汗と涙は、日本の夏のひとつの風物詩ですね。ただし、私は選手生活最後の日、高3夏の県大会で敗退した直後も泣きませんでした。 やせ我慢をしていたわけではありません。素晴らしい仲間たちと懸命に努力し、充実した2年半を過ごせたことに満足していました。負けた悔しさや、甲子園の夢が破れた悲しさよりも、翌日から待っているだろうフリータイムへの高揚感のようなものが優っていたように記憶しています。 人前でひどく叱られたり、卒業式で惜別の念に駆られたり。学生時代にはそういう経験もしていますが、涙とは無縁でした。今どきの子はどうか知りませんが、私たちの昭和末期から平成初期の時代には、学校生活で涙を見せる男子というのはほとんどいなかったように思います。 それでも私は実は一度だけ、校内で同級生を前に泣いたことがあります。今でも尊敬する亡き母(※コラム第1回参照→こちら)を偲びつつ、ここで打ち明けたいと思います。 通った都内の中学には軟式野球部がなく、学年で1人だけ硬式野球の台東ポニーでプレーした。写真は2年生当時 国や世代を超えて愛される日本のアニメ『ドラえもん』の中に、ジャイアンという手荒な少年が出てきます。 さすがにこのご時世にあって、描かれるキャラクターや言動は、信じられないほどマイルドになっていると聞き及びます。「オマエの物はオレの物。オレの物はオレの物」――昭和育ちなら誰もがピンとくる、理不尽なこの名セリフも今の子にはあまり通じないようです。 とにかく、体が大きくて、力も気も強くて、交友関係ではやりたい放題の粗暴な少年。それがジャイアンであり、中学2年生の途中までの私でした。 小学生で身長は160㎝近くあり、クラスで後ろから2番目。運動が得意で、野球の腕前も断トツのチームのキャプテン。学校でも野球チームでも、腕力にモノをいわせて好き放題の身勝手をしていたように思います。 小6の台東区陸上競技大会。学校のプラカードを持つ大柄な少年が筆者 そして近隣の複数の小学校から生徒が集まる中学校に進むと、その度合いがさらに強く。誰が一番強いんだ!?――自分以外の腕自慢たちと、あり余るエネルギーをぶつけ合い、頂点にのし上がったのが私でした。 当時はそういう意図や自覚はありませんでしたが、学年を牛耳っていた感じ。己の力を誇示したいという欲求は膨らむばかりで、力試しはやがて校内の域を超えて…。一方で、犯罪やそれまがいに手を染めるようなワルさとは無縁。校舎のガラス窓を割ったり、先生に暴力で抗うような非行少年とは違いました。また、野球では先輩からも一目置かれる存在で、学校生活でも上級生から可愛がられていました。 ジャイアンさながらに、演劇会でも皆を従えていた?(小6、左端) 私の通った中学校は、東京都の浅草界隈。満足なグラウンドがない代わりに、屋上が解放されていました。また、軟式野球部がないので私は学年で1人だけ、硬式野球クラブの台東ポニーでプレー。クラブ生は全員、五厘刈りでした。 学校では学年唯一の丸刈りは、否応なく目立ちます。しかし、「ハゲ」などの軽口や笑いが聞こえようものなら、私は容赦をしませんでした。友人には勝手に優先順位をつけており、あれこれとアゴで使ったり、理不尽を仕掛けて笑ったり。今風の言葉にするなら、周囲を「イジり倒していた」わけです。 台東ポニー時代。左から2番目の捕手が筆者。1学年上のエース・小池貴昭さん(右端)は、2013年に全日本学童8強入りした千葉・磯辺シャークスの監督を務めている そんな息子が原因で、母が学校に呼び出されることも、たびたび。ある時は同席した友人の母親に泣かれて、このように言われたこともありました。 「あなたのせいで、ウチの子は学校に行きたくないと言っています。あなたには人の痛みがわかるの?」 さすがに悪いことをしたな、とその場では反省。でも私からすれば、じゃれ合っていただけで、相手(友人)も楽しんでいると感じていました。そしていざ、その友人を前にすると、ジャイアンは開き直って言ったのです。 「オマエの母ちゃんに泣かれちったよ」 孤独な学校生活が始まったのは、それからしばらくしてのことでした。 よく群れていた友人は10人ほどいました。ところが、いつものように近寄っても話し掛けても、誰も何も反応をしなくなってしまったのです。それもある日を境に、ピタッと一様に。 いわゆる「ハブンチョ=仲間外れ」。登校から下校まで、どこで何をするにも独りでポツン。そういう中で、救いは週末の野球でした。 中2夏の合宿にて。硬式クラブでの野球は、孤独な学校生活を忘れられる時間でもあった 硬式クラブの仲間や先輩たちは、私の学校で置かれた状況など何も知らなかったので、付き合いもそのまま変わりませんでした。結果として、この「逃げ場」がジャイアンを救ってくれた面も多分にあると思います。...
【vol.6】涙で消えたジャイアン。学生生...

【vol.5】押しと戒めの訓。創業17年を...
「フィールドフォースさんはいいですね、やりたいことがお好きなようにできて」 皮肉めいた妬みでも、尾を引くような嫉みでもない。それが率直な感想だったのだと思います。 千葉県の柏市長(当時)と面談したのは2年半ほど前。クリスマスイヴの日だったので、余計に覚えているのかもしれません。思いがけぬ投げ掛けにいささか高揚する私に、市長がこう続けました。 「逆に役所というのは、トライ&エラーは許されないんです。失敗をしないために、たくさんの調査をして分析や評価をして、根回しもしてからでないと物事が動いていきません…」 われわれフィールドフォース(FF社)は、昨年の暮れに柏市内にボールパーク柏の葉をオープンし、東京都の足立区にあった本社機能もそこに移しました。市長と面談したのは、市営の富勢運動場野球場について5年間のスポンサー契約をするため。同球場は今、「フィールドフォースB-SITE TOMISE」として稼働しています。 本社機能を伴うボールパーク柏の葉(下)のオープンは2022年12月。所在地となる千葉県柏市とはそれに先駆けて2年前からスポンサー契約を結び、富勢野球場が「フィールドフォースB-SITE TOMISE」に(上) 市長が漏らした感想は、私にとっては最大級の賛辞でした。「やはり、役所はたいへんなんですね」くらいしか返せませんでしたが、心の内で燃えてくるものがありました。FF社は民間企業の中でも「トライ&エラーが許される」組織であるのは事実。むしろ、それを社内で推奨し、率先してきているのが社長のこの私なのです。 偉そうに社長業を語るつもりはありませんが、私の日々は選択の連続です。時にある大きな決断も含めて、ためらったり、迷っている暇がほとんどありません。社業がある程度の軌道に乗ってからは、常に選択、選択を迫られて生きてきています。 それでも仲間2人との創業から17年、今日があるということは、少なくとも選択をしくじってばかりではなかったのだと自負しています。もちろん、失敗は山ほど、苦い経験も数えきれません。選択肢に囲まれる毎日はまた、思うようにならないことで埋もれていきます。しかし、それでも必ずどこかに光がある。漆黒の闇ではないから、突っ走るべき道が輝いて見えてくるのかもしれません。 そしてそんな私の背中を押してくれる、座右の銘がこれです。 『巧遅(こうち)は拙速(せっそく)に如(し)かず』――。 この言葉を知った経緯やタイミングは自分でもよくわかりません。でも、とにかく、いつもこの言葉に励まされてきているのは確かです。 あらためて調べてみると、出典も諸説あるとのこと。500年前の中国の春秋時代に名将が残した兵法書にある言葉で、『戦いは多少の問題があろうと素早く行うのが良くて、長期化させても良いことはない』という解釈が一般的なようです。 私は勝手に、こういう意訳をしてきました。たとえ上手でも遅いというのは、少々は粗悪でも早いことには及ばない。この考えが選択の日々の根本にあります。『巧遅は拙速に如かず』が批判に用いられたり、真逆を唱える経営者もまたたくさんいることでしょう。是非を論じるつもりはありません。ここから先は私の考え方と経験則、哲学的な話になります。 トライ&エラーの「エラー」はサクセスへの手掛かり。クレームも独自商品をブラッシュアップしてくれる。写真は6月14日配信の『練習の質向上会議』より。右端が筆者 目の前の選択肢に対して、時間をかけて検討や熟慮をした結果、何も選ばない。ハイリスクに怯えて足がすくんでしまう、というのは私にとって最悪の決断。熟考の末に「楽なものを」という選択は次悪の決断です。難易度を選ぶ基準とした時点で、夢や希望といったものが一気に薄れてしまい、義務感で着手しても結果が出るどころか、達成感や充実感も何ら得ることなく、元の木阿弥に。 やってもムダだったね、というオチ。またそこに至るようなサイクルは、私が最も避けたいところ。それならば最初から何もやらないほうがいいし、負のサイクルに陥るとチャレンジ精神がどんどん損なわれてしまいます。人はじっくりと時間をかけて考えるほど、腰が重くなってきて楽なものを選びがち、というのが私の経験則です。 毎月生むアイテムの目標は3つ。発売がゴールではなく、改善改良を重ねていくので「失敗作」という概念が基本的にない。写真左は筆者、右は秋山浩保柏市長(2021年当時) では、私の選択が完璧なのかというと、決してそんなこともない。だからこそ、戒めや教訓として『巧遅は拙速に如かず』を己に言い聞かせるのです。複数の選択肢がある中で、一番自分が不得意で、ちょっと厳しいだろうなというものを行動力でまずやってみる。多少は拙くても時間をかけずにトライする。そしてうまくいかなければ、やり方を変えて、またやり直せばいい。 その繰り返しで人は成長して、価値や魅力が向上していくのだと思います。無意識にそういう選択ができるようになるのが私の究極の理想で、ここにきてようやく、理想に足を踏み入れられてきたような気がしています。若干の負荷がかかる選択をスムーズにできるようになってきているからです。 選択の後にカギになるのが、優先順位。物事は大半が同時進行している中で、すべてに同じ力量を注ぎ込むのは不可能です。そこで優先順位の高いものから、自分の労力やスキルを投入していく。ここまでは無意識でできるようになってきたのかもしれません。 そしてその上で、私が意識的にしているのは「公言」。まずは決断(無意識の選択)を広くみなさんに聞いてもらう。そしてその道を得意分野とする人や、興味を持ってくれる人たちを巻き込んで、小さなグループや組織として着手していく。直近でいうと、この『学童野球メディア』がまさにそれです。 みなさまへ決意表明をしてから3カ月強。まだまだゴールは果てしなく遠いところにありますが、頭の中で描いていたものが少しずつ絵になってきたようです。おぼろげながら、輪郭を持ち始めていることに喜びを感じています。私も編集部も希望と気概に満ちています。前例になかったものを形にせんと、トライを重ねています。 では最後に、社長として最低限の規範をひとつ。どんなに選択に迫られて、時間も余裕もまるでないとしても、私に声を掛けてくれた相手には誠意をもって対応すること。特に社内においては、これを肝に銘じています。...
【vol.5】押しと戒めの訓。創業17年を...

【vol.4】モノを売るだけではない。コト...
お父さんお母さんに、幼い息子と娘。その一家が、われわれのボールパーク足立にフラっとやってきたのは1年以上前。冬の寒い日のことだったと思います。 「すみません、子供たちだけを家に置いてくるわけにはいかなかったもので」と、幼子たちの手を引く母は英語の塾の先生とのこと。保育士をしているという父が、私にこう続けました。 「こういうボールパークみたいな施設を作って、家族で運営したいと思っているんです!」 アポイントがあるとかないとか、そんなのはどうでもいい。夢を叶えようと家族全員で足を運んできてくれた、それだけで私の血が騒ぎだしました。ボールパークのような施設を新たに生む。これはフィールドフォース(FF社)のミッションコピーにも重なります。 『現代の練習環境を変革する!!』 本社機能も移設した直営の5号店、ボールバーク柏の葉の2階へ通じる階段の踊り場に、社のミッションコピーを掲げている 1週間後。夫婦が候補地としていた場所(建物)へ私も赴きました。そこはタクシー会社の跡地。管理する不動産会社にも出向いた結果、屋根が違法建築で用途地域(都市計画法に基づく土地利用の区分)にも適さないのでNGに。その日以降も、候補地巡りに帯同をすること、ついに4件目。埼玉県上尾市の商業地の一角に落着したのが、今年の2月でした。 箱が決まったら、こんどは中身のほうです。まずは夫婦が思い描く城に屋内の形状やサイズ感を照合しながら、可能なレイアウトを私から提案。さらに仮の施工スケジュールを組み、概算の見積りも提出しました。 脱サラしてのチャレンジは、人生を大きく左右するものです。軽々に結論が出るはずがありません。私もそこまで立ち入ったり、急かしたりはしません。ただし、着工からオープンまでの流れや収支の基準など、経験則から具合的な話をして不安を和らげてあげることはできます。 候補地を巡ること4件目、埼玉県のバリュープラザ上尾愛宕店の2階に箱が決まった 正式な発注が夫婦からあったのは、今年の3月半ばでした。私は速やかに諸々の材料を発注。同時に、各施工業者へ正式に依頼をかけました。もう後戻りはできません。夫婦はFF社のボールパーク柏の葉へも研修に訪れ、実際に売り場にも立ってお客様の受付や室内練習場へのご案内方法、打撃マシンの調整方法などもしっかりと学んでいきました。 そして4月6日に電気工事が始まり、最後の内装まで終わったのが同28日。機材や備品などの搬入と設置も済ませて5月1日、晴れて『WISE BaseBall Filed』がグランドオープンしました。これに先立って、私は夫婦へ次のように「想い」を贈りました。 「施設を宣伝するのにSNSも含めて発信されるときには、ウチ(FF社やボールパーク)の名前も出してもらって構いません。実際、これまで一緒にやらせてもらいましたし、遠慮せずにウチの名前もどんどん使ってください」 経営は完全に別。つまり、夫婦の上尾の施設はFF社の直営ではありません。でも、それで何の問題があるというのでしょう。直営であろうとなかろうと、ボールパークのような練習場が増えることは、野球界にとってプラスでしかありません。そしてそれは社の経営理念『プレーヤーの真の力になる』ことにも結びつきます。 この5月1日、埼玉県上尾市にオープンしたWise Baseball field。写真上が施工中、下が完成後。「想い」で結ばれた人脈と8年超のノウハウを結集し、3週間強の工期を実現した 昭和の時代には、人口が密集する都市部とベットタウンにもあった空き地や広場。これらに代わる「場所」を、全国の野球少年・少女たちに提供する。こういうコンセプトの下、ボールパークの第1号を東京都の足立区にオープンしたのは2016年のことでした。 いつでも空いていれば、誰でも自由に使える屋内練習場。無料とはいかないが天候に左右されず、音も人の目も気にせず、やりたい練習に打ち込める。そういう民間施設は私の知る限り、他にありませんでした。それが証拠に、足立の1号店には遠方から車や電車でやってくる人も絶えなかったのです。 前例がないということは、専門の施工業者もいません。新しいことにチャレンジするのは私のモットー。とはいえ、やるは難し。見切り発車した足立のボールパーク事業は、電気工事、人工芝、防球ネット、内装の各業者をインターネットで検索することから始めました。どの先方にとっても、ほぼ経験のない屋内練習場です。私の「想い」に耳を傾けてくれる業者がいれば、すぐにそっぽを向かれてしまうことも。最終的には相見積もりの上で決定させてもらいましたが、もう二度としたくないというほど長くて険しい道のりでした。 民間ではほぼ前例のなかった全天候型の練習場「ボールパーク」の第1号店を2016年、東京都足立区にオープン 施工期間は半年以上。先の上尾の施設の数倍です。各業者には、屋内で野球の練習をするのにベストな答えを導く作業から付き合ってもらいました。例えば「照度」。これは照明の明るさのことですが、電灯の種類や配置だけではなく、防球ネットの有無でも数値が簡単に変動します。ということは、電気工事より先に防球ネットを張ってテストをする必要がある。しかし、防球ネットを張ってしまうと、人工芝を敷けないし、電気工事もできなくなる…。こういう堂々巡りもあって工期がどんどん伸びて、費用もふくれていきました。 ただし、どの業者も私のリクエストに対して「無理です!」「できません!」とは言いませんでした。畑は違っても、「想い」は通じる人には通じるのです。彼らはその後の2号店、3号店から直近の上尾の案件まで、変わることなく頼れるパートナーであり続けてくれています。新たなボールパークに着手するたびに、より良い仕様へとマイナ―チェンジができているのも、彼らの存在があればこそ。上尾の3週間強という工期も、彼らなしには不可能でした。 ボールパーク足立の施工中。すべてが「無」の状態で業者探しからスタートし、テストも繰り返しながらの工期は予定を大きくオーバーして半年以上に...
【vol.4】モノを売るだけではない。コト...

【vol.3】異国の師匠とプレーヤー。三位...
コロナ禍の終焉はしていませんが、海外からの観光客も日本各地に戻ってきたというニュースを耳にするようになりました。まだ少し先になりそうですが、われわれフィールドフォース(FF社)でも、中国から研修生の受け入れを復活したいと考えています。 世界が新型コロナウイルスに冒される以前は、中国の協力工場のスタッフたちを定期的に日本に招いていました。周知のとおり、今や中国は世界1、2の経済大国ですが、「野球」においては途上国以前。先の第5回WBCには参戦しましたが、国民は「野球」をまだまだ理解していないのが実情です。 そういう国にあって、野球のグラブや打撃マシンや練習ギアなど、FF社の独自のアイデアをまずは「形」とし、さらに「商品」へと仕上げてくれる工場。そこで精を出すスタッフは、FF社にとって不可欠なプレーヤーです。 コロナ禍前までは、中国の協力工場の同志たちを定期的に日本に招いてきた。写真は2018年9月、左からミッキー、シャオミャオ 中国で働く彼ら彼女らが手掛けた「商品」が、日本でどのように売られて、またどのように使われているのか。「野球」というスポーツが、日本でいかに愛され、親しまれているのか。これらを実際に、来て見て知って感じてもらうことは、双方にプラスでしかないと私は考えています。 シャーロン(Sharon)、キャロル(Carol)、ミッキー(Mickey)、サニー(Sunny)、シャオミャオ(Xiaomiao)、トレーシー(Tracy)、スーサン(Susan)、アシュリー(Ashley)。日本人はほぼ使いませんが、アジア圏の国の多くは、こうしたイングリッシュネームで海外(特に対英語圏)とやりとりする習慣があります。 名前を挙げた8人はみんな台湾・中国人で、現地スタッフの中でも私の大切な同志たち。香港島のほぼ真上(北)に位置するシンセン(深圳)、台湾に対面するアモイ(廈門)をそれぞれ拠点に、全部で30近くある協力工場の先導や管理をしてくれています。 私は「吉村」という姓の中国語読みで「ジィツン(Jicun)」と呼ばれており、コロナ禍でも365日、必ずこの8人の誰かとウィーチャット(WeChat)や電話でやりとりをしていました。海の向こうの言葉も文化も異なる工場と、ダイレクトに日常的に意見交換や意思疎通ができる。商社も介さない、第三者が入り込む余地もない、この関係性こそが、実はFF社の最大の強みです。 野球をほぼ知らない国の同志に、日本で野球を見てもらうのも意義がある 例えば、この2月に中京大中京高校(愛知)の女子軟式野球部員が、来社して新商品「更衣テント」のプレゼンをしてくれました(「学童野球メディア」リポート→こちら)。私はその日のうちに、同志のキャロル(Carol)に電話をして北京語でこう伝えました。 「日本の女子高生たちが勇気を持って、社まで足を運んでプレゼンをしてくれたので、何とかそのアイデアを形にしたい。協力してくれないか」 すると、すぐに試作品に取り掛かってくれました。私からのこの手のリクエストは頻繁ですが、同志たちに拒まれたり、見返りの上積みを求められたりしたことは一度もありません。 それは、なぜか? 私が有無を言わせぬ親会社のボスだから? いえいえ、まったく違います。日々のコミュニケーションを密にしながら、新しい企画やアイデアを共有し、ともにチャレンジをしている同志だから、です。協力工場はどこも開発意欲が高く、少量でも付加価値の高いものを売っていこうという方針で、FF社の想いとも十分に重なっています。 海外で安価なものを大量生産して日本で売りさばく、という時代はもう終わりました。土地も物価も人件費も上がるばかりの中国では採算が合わないと判断し、生産拠点を東南アジアへ移設するという日本企業の動きが近年は加速しています。 一方、われわれFF社には価格競争をする相手もおらず、生産拠点を転じる必要性が生じていません。独自性のある、唯一無二の商品で勝負をしているからです。創業から17年かけて、同志たちと培ってきた開発製造のノウハウや文化は、昨今の緊迫した国際情勢にあっても何ら揺らいでいません。 コロナ禍前までは毎月、社長自らも中国へ。写真は恵州(けいしゅう)の自社ネット協力工場での研修時 ビフォー・コロナ。新型コロナウイルスの蔓延前までの私は毎月、中国に渡っていました。日本の25倍とも言われる国土を巡り、協力してもらえる工場を地道に開拓。その際に必ず車のハンドルを握り、各地でアテンドをしてくれた台湾人の恩人がいました。彼は工場でのモノづくりや生産工程なども、細かにレクチャーをしてくれた、私にとっての師匠でもあります。 名前はジミー(Jimmy)。そう、社会人ルーキーの私を「魔の二週間」(コラム第2回参照)のトラウマからも救ってくれた恩人です。出会いからFF社創業までの7、8年の間にも、私たちは幾度となく中国で仕事をしながら信頼関係を築いていきました。脱サラを決めた私が一番に相談したのもジミーさん。 すると「わかった、一緒にやろう!」と、FF社のためにファイナンス系の会社を新たに起ち上げてくれました。同社は、中国に数あるFF社の協力工場の指導や品質管理のほか、商品代金の支払いなども一括して代行。ジミーさんの「恩」は尽きませんが、何より大きかったのは代金を支払うサイト(猶予期間)の延長でした。 一般的に日本の取引先の支払いサイトは90~120日なのに対して、中国工場へは商品を船積みした日から「15日」しかありません。この大きな隔たりが、資本金も潤沢でない日本の新興企業には重大なネックになるのですが、ジミーさんは私たちを慮って猶予を自ら「120日」としてくれました。この厚情がなかったら、今のFF社は存在していないはずです。 「恩人」であり「師匠」でもあるジミーさん。コロナ禍前までは夫妻を日本に招待してきた 実績もなく、未来も不透明だったFF社に対して、ジミーさんはなぜ、そんなにも親身になってくれたのでしょう。あくまでも私の主観ですが、社会に出て間もない20歳そこそこの日本人(私)が、拙い北京語を懸命に使いながらドロくさく働き倒す姿を見て、気に入ってくれたのかもしれません。 「ヨシムラさん、早く寝なさい」 日本語も話せるジミーさんは、若かりしころの私によくそう言って励ましてくれたことも思い出しました。数々の恩にまだまだ報いきれてはいませんが、研修生の受け入れもご恩返しのひとつ。『プレーヤーの真の力になる!』を理念とするFF社が、中国の同志たちも「プレーヤー」と位置付けているのは、そういう理由もあるからです。 (吉村尚記) ジミーさん夫妻とは家族ぐるみの親交。筆者の息子たちは毎年の夏休みに台湾のジミーさん宅にホームステイしてきた
【vol.3】異国の師匠とプレーヤー。三位...

【vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼...
【社長コラム】第2回 今どきの若者なら「意味不明」の4文字。英語圏では「No understand!」だけで通じるかもしれません。中国語ではそれを「听不懂(ティンブドン)」と言います。発音の表記は「Ting bu dong」ですが、実はこのフレーズが私の人生にとって最大のトラウマでした。 あれほどに打ちのめされたことは、後にも先にもないと思います。忘れようにも忘れられない「魔の二週間」。私は中国人たちから「ティンブドン!(直訳:あなたの言っていることが理解できません)」を、浴びせられ続けたのです。このフレーズを聞くたびに自信が失せてゆき、やがては体がぶるぶると震えるほど追い詰められることに。 そんな「魔の二週間」を体験したのは、大手の野球用具メーカーに就職して間もないころでした。大学時代に中国へ留学し、北京語(中国・台湾で概ね通じる言語)の日常会話をマスターした(つもりでいた)私は、さっそく社から中国出張の命を受けました。 課された任務は、リタイアしたばかりの日本人の職人の現地アテンド兼通訳。中国にある社の硬式ボール製造工場で2週間、その職人さんには講師を務めていただくことになっていました。 今から思えば、はなはだ無茶な話です。入社したての私にボール製造の知識があるはずもなく、北京語のレベルも日常会話程度でしかなかったのです。にもかかわらず、怖いものを知らない社会人1年生は使命感に燃えて機上の人に。 「ティンブドン!」 いざ、中国の工場で始まった研修は遅々として進まず、例の単語ばかりが工員から口々に発せられました。それはすべて、職人さんが発する専門用語を北京語に訳せない私に向けられたのでした。 羊の毛の番手(太さ)だとか、接着剤や薬品の種類だとか、日本語でも初耳という単語が少なくない。それをさらに外国語へ変換なんて、できるはずがなかったのです。この段になって初めて、己の場違に気づいた青二才は、逃げだしたい衝動にも駆られました。 2006年にフィールドフォースを創業し、中国・台湾との往来がさらに頻繁に。写真は中国・深圳(しんせん)の自社マシン協力工場での研修時 どうしよう、どうしよう。オレにはこの仕事は向いてない。違う道に行ったほうがいいのかな――。震える体に騒ぎだした弱気の虫。辛うじてそれを抑え込み、私は大汗をかきながら通訳を続けました。ボディランゲ―ジと辞書を用いて、メモ書きをしまくりながら。今ならインターネットやデジタル辞書や自動翻訳の端末が助けになるでしょうが、そういう類いも一切なかった25年ほど前のことです。 幸いにも、講師役の職人さんは怒るどころか、逆に親身になってくれました。異国の工員たちに何とか理解をしてもらおうと、率先して簡単な言葉や表現を使ってくれるように。そうしてどうにかこうにか、予定の14日間が過ぎました。 ふと、今も考えることがあります。「魔の二週間」の中で、実際に逃げだしたり、ギブアップをしなかったのは、なぜか。自身をそこに滞留させる力となったものは、何だったのだろう、と。 答えはひとつではありませんが、確実に作用していたのは野球の経験です。3割打者でも7割は打ち損じる、という失敗の多いスポーツ。これを高校まで懸命にやってきたことで、いちいち挫けない鋼のような耐性が自ずと形成されていたのかもしれません。それが証拠に、ぶるぶると怯える自分に失望を感じつつ、一方では悔しさを募らせてもいたのです。 悔恨と羞恥をエネルギーとして、帰国後は野球用具各種の素材から製造工程まで、自主的にどんどん学んでいきました。北京語へ置き換えもしながら。社会に出てすぐに、荒波以上のアウエーの地で無知と無力を自覚できたことは、かけがえのない財産になったと思っています。 とはいえ、トラウマはそう簡単に払拭できるものではありません。独学で知識を蓄えるにも相応の時間が必要です。しかし、「魔の二週間」で負った傷がまだ生々しいうちに、再び海外出張の命がくだりました。今度は台湾です。 「吉村さん、あなたは中国人ではありません。だから、100%の中国語を話せるわけがありません。それでも、日本人なのに中国語を使っている。それだけですごいことなんです! 言い間違いなんて当たり前。自信をもってやってください」 2度目の海外出張、不安げな日本のグリーンボーイを北京語でそう励ましてくれたのは、取引先だった台湾の商社の社長でした。まさしくそれが「金言」に。私はどれだけの勇気をもらい、またどれだけ、心を軽くしてもらったことでしょう。...
【vol.2】ぶるぶる震えた魔の二週間。頼...

【vol.1】ラッキーナンバーは「2」 天...
【社長コラム】第1回 目配り、気配り、思いやり――。キャッチャーの経験者であれば、一度は聞いたことがあるフレーズだと思います。中には耳にタコができるほど聞かされて閉口し、自ら別のポジションに転じたという人もいるかもしれません。 私の現役時代はずっと、キャッチャーでした。視界の広さも耳から入る情報も断トツの「扇の要」は、「女房役」とも言われます。ピッチャーの機微にも注意を払いつつ、事前に準備したデータや作戦に経験則も踏まえ、1球ごとにリードをしていきます。そして相手打者を抑えれば、真っ先にピッチャーを称え、逆にやられることがあれば自ら非を被る。高校野球ともなれば、それくらいの覚悟は必要かもしれません。 正捕手の背番号でもある「2」。これを今でも自分のラッキーナンバーとしているように、私には引き立て役、人さまのお役に立つということが性に合っているようです。振り返ってみると、そういう適性は少年から青年にかけての時期に、自然に備わったのだと思います。 可視化はできない人格の形成において、おそらく最も影響を受けたのは、母親です。私がこの世で最も尊敬する人ですが、残念ながらもう会うことはできません。今から17年前、不治の病に冒されて64年で生涯の幕を閉じました。 その母を見送ったときの私は30歳、5月のことでした。たとえようのない失意と悔いに苛まれながらも、よっしゃ、やってやるか! と職場の仲間と脱サラしてフィールドフォースを立ち上げたのが同年11月のことでした。 母はいったい、何のために生きてきたのだろう。ふと、今も思いを巡らせることがあります。まさしく「無私の愛」を、私と3つ上の兄に捧げ続けてくれたからです。 父親は母よりずっと早くに他界。私は物心ついたころから、いわゆる母子家庭で育ちました。今から思うと、生活は相当に困窮していたはずです。しかし、食べ盛りの兄弟2人はひもじい思いなど、まるでしませんでした。母が3つの仕事を掛け持ちしていたおかげです。昼間はビルの清掃など2つの職場を梯子して、帰宅後は兄弟のために食事をつくり、夜からはファーストフード店の清掃へ。 丸一日を家庭で過ごすなんて、なかったように思います。それなのに、私たち息子の前では、いささかも疲れた顔を見せず、勉強や家事手伝いを命じるようなことも一切なく。兄弟の進路についても「いいじゃない!」と、本人の判断を追認してくれるのみでした。 そんな母をたいへんだな、と思いつつも、それを言葉に出すでもなく、行動でフォローするわけでもない、青臭い私がいました。高校は野球推薦で千葉県の私立校へ。母の手製おにぎりを毎日5個持って出かけ、大好きな野球に2年半、没頭しました。 朝は始発の電車に乗って集合の駅に向かい、そこから学校まではランニング。練習後におにぎりを2個食べて、10時半にもう1個。野球部員にサービス旺盛な食堂で昼に特盛のカレーライスをたいらげて、6時間目の授業が終わってからの練習は夜の8時くらいまでやっていました。その後に、おにぎりをまた2個。そして下校後は、野球部の仲間とトレーニングジムでフィジカルを鍛え、帰宅は早くても夜の11時過ぎ。働き倒している母とは、すれ違いの生活でした。 大学へも通わせてもらった私は、さらに海外(中国)へも留学。そして野球用具メーカーの営業マンとなってからはようやく、人並みに親孝行をしてきたつもりでした。しかし、いざ、目の前から母がいなくなってしまってからは後悔ばかり。 「親孝行、したいときに親はなし」とはよく言ったものです。直接に恩を返せることは、もう永遠にないのです。一目でも一言でもいいから、再び顔を見合わせて、肉声を交わすことができたなら…。 ...