あるべき今と、これからの学童野球界をつなぐ輪。「監督リレートーク」は6人目となりました。全日本学童大会に2年ぶり10回目の出場を決めた茨城・茎崎ファイターズの吉田祐司監督。厳しさも隠さぬ一本気な満50歳の名将は、埼玉で老舗チームを長らく率いる同級生へ、己にも通じる熱いメッセージを送ってくれました。
(取材・構成=大久保克哉)
よしだ・ゆうじ●1973年、茨城県生まれ。茎崎ファイターズで野球を始め、つくば市立高崎中で軟式野球部。竜ヶ崎一高で2年夏に甲子園出場(2回戦)、主将を務めた3年夏は四番・一塁で甲子園3回戦進出、松井秀喜を擁する石川・星稜高に3対4で惜敗。福井工大で大学選手権4回、神宮大会2回出場。96年に茎崎ファイターズのコーチとなり、99年から監督に。2001年初出場の全日本学童は今夏で10回目に。19年に準優勝、3位が3回。2015年全国スポ少交流2回戦進出。卒団生の次男・慶剛(千葉・専大松戸高3年)が今春の甲子園で本塁打も放っている
[茨城・茎崎ファイターズ]
吉田祐司
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斉藤 晃
[埼玉・熊谷グリーンタウン]
さいとう・あきら●1973年、埼玉県生まれ。熊谷市立奈良小でソフトボールを始め、奈良中の軟式野球部では一番・三塁で活躍。行田工高でラグビー部に入り、2年時にはウイングの11番で花園(全国大会)出場、3年時はスタンドオフ10番。卒業後は社会人のソフトボールでもプレー。甥っ子たちが入団した熊谷グリーンタウンで、コーチを経て2004年から監督に。翌05年秋の新人戦で関東4強入り。2016年から2年連続で全日本学童大会に出場し、ともに初戦を突破して2回戦で惜敗。5年ぶり3回目の同大会出場となった昨夏は、猛打で4強まで勝ち進んだ
悔し涙なんか、誰でも流せる。どうせ泣くんなら、うれし涙を流せ! ウチの子どもたちにはよくそういうことを言っています。自分自身も、茎崎ファイターズというチームで監督をさせてもらっている以上は、負けられない! 正直、常にそれがあります。毎年の選手の頭数とか能力で、そこが変わることは決してありません。
全員が同じ志の組織
目標はあくまでも全国大会――。選手も保護者もそれを知って、求めて入ってきてくれています。だから、今年は6年生が6人だけですけど、そういう言い訳は絶対にしてきませんでした。ただ、今年のチームはホントに力がなかったので、県大会で優勝(全日本学童出場決定)したときには、今までにないくらいのうれしさがありましたね。
歴代のOBや家族らを含む大応援の中で、今夏の全日本学童出場(県優勝)を決めて、胴上げされた(6月24日、水戸市)
そのあたりは3人のOBコーチ、佐々木(亘)と茂呂(修児)と小林(拓真)もしっかりとわかってくれていて、危機感も喜びも同様だったと思います。監督がどうというより、組織力で勝たせてもらったということですね。
私をこのコーナーに紹介してくれた天井クン(正之監督)の、常磐軟式野球スポーツ少年団(福島)に実績はぜんぜん及びませんけど、OBの指導陣でカチッと団結している、という点では茎崎も同じだと思っています。
天井クンと出会ったのは20年以上前。お互いに大学野球までプレーして、古巣の学童チームでコーチになっていたころ。正直、堅いなという第一印象でした。常磐といえば当時から学童野球を引っ張る存在で、全国は出て当たり前でそこでいかに勝つかを考えられているようなチームでしたから。天井クンは学年は1つ下ですけど、逆に同年代だからこそ甘さを見せないというか、絶対に負けたくない、という感じがあったんじゃないかなと思います。
それでもチーム同士の交流が定期的にあって、お互いに監督になってからは行き来のタイミングで酒席もともにするように。そういう中で徐々にお互いの心が開いて、気付いたら何でも話せる関係になっていましたね。
動じぬ男の一度きりの弱音
ウチらは常磐を目標にずっとやってきましたし、常磐との練習試合がひとつのバロメーターになっているんです。勝った負けたじゃなくて、今の自分たちのチームの立ち位置だとか、前回からの成長具合だとかを判断することができる。今でももちろん、目標とするチームです。
天井クンがすごいのは、動じないところ。ほぼ同時期に、若くして監督になりましたけど、天井クンの常磐はすでに名門中の名門。自分が監督になった当時の茎崎は、まだ全日本学童にも出ていませんでしたから、プレッシャーも雑音も比較にならなかったと思うんです。でも天井クンは、野球に関しては当初から少しもブレていない。誰にでもできることじゃないですよね。
1999年の監督就任時から、同級生の佐々木コーチ(写真上右)と後輩の茂呂コーチ(同左)と三人四脚。「優勝したらまず佐々木コーチと握手がお決まり」(吉田監督=写真下)
今でも忘れられないのは、2011年の東日本大震災の後のこと。福島県はいわき市も含めて沿岸部も津波で大きな被害を受けて、街のほうも壊滅的で他の県に引っ越してしまう子どもたちもいたり。そういう中で天井クン(当時は家庭の事情でチーム顧問)から電話が掛かってきたんです。
「もしかしたらもう、野球ができないかもしれない…」
後にも先にも聞いたことがない、弱々しい声と口調。それまでの強気な天井クンじゃなかったんです。正直、自分は話を聞くだけで、何も言ってあげることができなかったですね。「頑張れよ!」とか言うのは簡単ですけど、そういう他人事みたいな声掛けは逆にできなかったんです。
でもその分、何とかして震災前までのような感じでやれないかな、と。常磐も天井クンも、こんなところで終わらずに復活してもらわなくちゃいけない、と思っていましたからね。福島では野球ができる状況じゃなかった期間には、常磐のみなさんは茨城県内で練習をされることもあったので、自分たちもできるだけそこに顔を出したり。
交流の輪の広がり
ウチらだけ良ければいい、という考えは自分にはもともとないんです。20年くらい前からは、常磐以外にも千葉とか東京とか、どんどん交流を広げていきました。そのきっかけにもなったのが、秋の新人戦の関東大会で初めて戦った吉川ウイングス(埼玉)です。
知っている人も多いと思いますけど、埼玉県は全日本学童の県予選は、大半が地域選抜チームで行われているんです、昔から。それで選抜チームが優勝すれば当然、全国大会にも出てくる。そういうこともあって、埼玉のチームとはあまり接点がなかったんですけど、ウイングスの竹内昭彦さん(当時監督、現理事長兼総監督)が「ウチは選抜チームに反対で、全国予選も吉川市の大会から単独チームで出ています」と。それから交流も始まって、ウイングス主催のローカル大会にも参加するように。その中で、竹内さんを通じて出会った同級生を、次の監督として紹介したいと思います。
小・中・高・大とエリート街道を歩んだとあって、ノックもさすがの腕前
埼玉県の熊谷グリーンタウンの斉藤晃監督です。付き合いはもう10年以上、年に1回2回は必ず試合をさせてもらっています。
先日の茨城県の全国予選の決勝は、相手の上辺見ファイターズも自分たち茎崎も交流のあるチームということで、斉藤さんから「応援に行きます!」という流れで現地まで来てくれました。そうやって活動する地域は違っても、他県のことやウチのことにも何かと気をかけてくれるのは、斉藤さん自身もどんどん交流の輪を広げているからだと思います。
同じ1973年生まれを知ったのは、知り合ってしばらくしてから。斉藤さんはお酒が飲めないのに、そういう席にも付き合ってくれて話ができる。また何より、境遇とか考え方が自分と近いんですよね。グリーンタウンも伝統のあるチームで「オレたちは昔から頑張ってきているんだ!」という自負のようなものが共通してあります。
2016年に斉藤さんが初めて全日本学童出場を決めたときには、いろいろと聞かれたのでアドバイスはさせてもらいました。自分も全国初出場時(2001年)はそうでしたけど、全国大会というと、とんでもなく実力のある強いチームばかりのイメージを持つようです。
でも、何度か経験をさせてもらってわかったのは、そういうホントに強いチームは全体の1/3くらい。あとの2/3は、そこまで徹底的に警戒をするほどのチームではない。だから、「全国だからって、そんなに構える必要はないと思うよ」という感じのことを伝えたのは覚えています。
お互いもう50歳になりますが、歴史のあるチーム同士、まだまだ結果も残していかなくちゃいけない。去年の斉藤さんのチームはホントに力があったので「この代で全国に行けなかったら、監督辞めたほうがいいよ」と、冗談ぽく言い続けていました。そしたら見事に全国ベスト4。選手もそれ以降、増えてきているそうなんです。
昨夏は6年生10人で、全日本学童4強まで進出した熊谷グリーンタウン
指導者の熱意があれば、子どもたちも入ってくるし、保護者も協力してくれるし、結果もついてくる。自分もずっとそう思っているので、お互いにこれからも切磋琢磨してやっていければいいなと思っています。そう伝えてください。