【編集長コラム】第3回
公式戦の前の5分間のシートノック。ここで手の内を隠すチームはまずあるまい。外の視線を気にするより、自分たちのパフォーマンスを発揮するための準備が主眼だ。ゴロの弾み具合やフライの見え方、外野やファウルゾーンの広さなど、その日で異なる環境面の確認のほか、自身と仲間のコンディションの確認も大切になる。
相手チームがそうした最終点検をしている5分間の過ごし方は、チームによる。全員で注視し、相手守備のレベルや長短をインプットしていくのが最も一般的だろう。相手との実力差が明らかな場合には、選手の萎縮や慢心を招かないようにミーティングをするなど、あえて見せないケースもある。
いずれにしろ、そこに存在するのは相手チームに対する「敵」という意識や概念。倒さなければ自分たちがやられてしまうし、トーナメント大会は負けたら終わりだ。目の前の相手に敵意を抱くのはごく自然で、これはまた学童野球に限らず、上のカテゴリーやほかのスポーツでも同様だろう。
自ずと豊かになる心
「サード、ナイススロー!」「ショート、ナイスキャッチ!」「セカンド、しっかり~!」…。
5分間のシートノックを行っている相手チームに向けて、声を発する。こういう地域が学童野球界に存在することをご存知だろうか。
ベンチの前に一列に並んだ選手たちは、これから戦うことになる相手チームのノッカーのボールを目で追いながら、プレーする選手へ口々に声を掛ける。そこに「敵意」はない。同じ地域で同じ野球をする「仲間」への関心や、互いに健闘を誓い合おうという意図が働いていることは、前向きな言葉や声のトーンからも読み取れる。
「いつから始まったんでしょうね、もう10年以上前からだと思います。連盟でルール化したり、強制するようなことは一切していません。おそらく、どこかのチームがやり始めて、良いと思ったチームがマネをする。それで徐々に広まったんだと思います」
そこは千葉県の柏市。24チームが加盟する市少年野球連盟の大桑久光会長は、シートノック中の声掛けの経緯をそう説明した。すっかり定着した風習なのだろう、その後の両チーム整列と挨拶、そしてプレーボールという流れにも支障は何もなかった。
シートノック中の相手選手たちへ、前向きな言葉を掛けていたビクトリージャガーズ。千葉・柏市春季大会の3位決定戦前より(2023年4月23日、柏ビレッジ)
声掛けには、チームや選手で温度差があった。しかし、指導者がハッパをかけたり、声が小さい選手を咎めたり、あまり発しないチームを連盟役員が注意したり、という愚が見られない。あくまでも任意で自主的なもの。選手たちは個々の自らの意志で言葉を選び、発していたのも印象的だった。
本質を見抜ければ
その後の公式戦はもちろん、真剣勝負だ。それでいて、相手チームをヤジったり、敵失で盛り上がったり、結果として相手選手の心理を脅かすような指導者の声もなかった。要するに、フェアプレーの精神が、この地域では自ずと根付いているのだ。
「ところがですね、県大会に行くと柏市のチームはよく怒られるんですよ。『相手チームのシートノック中はベンチの中に入っていなさい!』と」
連盟の吉田繁男副会長はそう言って苦笑い。確かに、相手のシートノック中はフィールドに出ないというのが一般的にはルールやマナーだろう。シートノックが妨げられないための制約とその必要性も理解できる。
柏市は、全日本学童大会に2019年から連続出場中の豊上ジュニアーズも所属するハイレベルな地域。往年のスター・谷沢健一氏(元中日)や、日米で活躍した小宮山悟氏(現・早大監督)などプロ選手も複数生んでいる。
そういう「野球どころ」だからといって、あるいは自分たちは良いことをしているのだという思い上がりから、県大会で注意に背くこともないのだろう。そもそも、ベンチの中からでも相手チームに声を届けることはできる。フェアプレー精神の養成という本質を見抜ける大人が増えてくれば、県大会や全国大会でもシートノック中のベンチ前からの声掛けが認められるケースも出てくるのかもしれない。
日本人の体質
プロ野球・日本ハムの新本拠地、エスコンフィールドは本塁からバックネットまでの距離が15mで、これは『公認野球規則』にある「60フィート(18.288m)以上」を満たしていないと話題になった。以降の顛末は割愛するが、当時の議論で明るみになったのが日米のルールの解釈(体質や文化?)の違い。MLBのルールブックには「60フィート以上を推奨」、日本のそれには「60フィート以上が必要」と記されているらしい。
是非を論じるつもりはないが、ルールを厳格化するのは日本人の体質(美徳?)だろう。そしてルール内のすれすれのラインを追求したり、抜け道を探しだすのが得意。一方で、そのルールが意図するところにまで解釈が及ばないがために、ルールの形骸化も多発する。公立の中学校や高校に残る、時代錯誤な校則が最たるところかもしれない。
学童野球の本質や意義とは何だろう。野球とチーム活動を通じた子供(選手)とその親(保護者)の幸せ、だと筆者は考える。それにはルールや取り締まりも必要だが、それ以上に本質を説くこと。そして本質を基準に、ものごとを判断・行動できる大人の数が肝要ではなかろうか。
異なる意見やあり方も認めて尊重する。どこか一部に著しい不利益や不均衡が生じないのであれば、弾力的に特例や例外も認めていく。そういう懐の深さ広さを共有して、幸せな親子をどんどん増やす。それによって非・野球人(コラム第2回参照)をも振り向かせ、競技者減少にも歯止めがかかるという考えは、浅はかだろうか。
幸せな親子をより多く
「楽しい」と「厳しい」。対義語であるかのように、昨今の現場ではこの二語をよく耳にする。子供の育成や指導のあり方に関心が高まっていること自体が大きな進歩。問答無用の旧態依然からの脱却へと、重かった舵が動いているようだ。
野球をする親子の幸せ、にもいろいろある。「楽しい」も「厳しい」も、解釈や概念が人によって大きく異なる。その隔たりで対立したり、相違を議論するよりも、多様性を認めて受け皿を広く整備していくことが得策ではないだろうか。
たとえば、子供のこういうパターンにも対応できるシステム。スイミングや珠算などと同じ習い事の感覚で、週に2~3時間だけ活動する学童野球チームに入ってみたら、どはまりして夢中に。もっとたくさん練習してうまくなりたい! となったら、その受け皿になるチームへ。さらに、もっと上のレベルで自分を磨いたり、全国大会を目指したい! となったらそういう受け皿になるチームへ。
逆のパターンもあって然り。プロ選手や全国出場を夢みて、週末と祝祭日は朝から夕方まで無休で活動するフルボリュームのチームに入ったが、厳しい現実を悟ったり、他にもトライしたいことが出てきたけど野球も続けたい! となったときに、ボリュームもやや抑えたチームへ。
主役は心も未成熟な小学生ゆえ、保護者のモラルも問われる。子供の単なるやりたい放題は、かえって本人や周囲の毒にもなる。それも踏まえた一定のルールの上で、選手が自らの意志である程度まで自由にチームを変えられるシステムが、全国のどこでも当たり前にある。漸減しているとはいえ、全国には現に9000を超えるチームがあるのだから不可能ではないだろう。個々の目標やランクと、それに沿った活動のボリュームを一息に公にすれば、すみわけ(受け皿の整備)もスムーズに進むのではないだろうか。もちろん、言うほど簡単ではないだろうし、一定期間の大混乱や多少の痛みを伴うケースも予想されるが。
学童野球界が全体として、そういう度量や本気度を世に示せる日が来たなら、相手のシートノック中の声掛けが全国大会でもふつうの光景になっているのかもしれない。
(大久保克哉)