学童球界にこの人あり! この40年で実に36回の全国出場という、オバケ記録を更新する福島・常磐軟式野球スポーツ少年団の大平清美団長だ。初代監督として「常勝」の礎を築き、50歳の若さで後進に道を譲って以降もグラウンドに立ち続ける“レジェンド”。5人のNPB選手も輩出しているチームが創立40年という節目で、自身の選手時代から前代未聞の処分事件の真相まで、たっぷりと語ってもらった。
(動画&写真&文=大久保克哉)
※インタビュー動画40min→こちら
【インタビュー収録内容】
❶巻頭トピック
▶3元号をまたいで40年、
繁栄が続く最大の理由
▶夏の夢舞台への契機と、
地元の好敵手の存在
❷初代監督の選手時代
▶野球との出会い
▶中学野球部で県準V
▶古豪・磐城高で2度の涙
▶プロや社会人への思い
▶社会人軟式クラブ創設
❸常磐JSC草創期
▶チーム誕生の経緯
▶選手8人での船出
▶発足当初の野望
▶初代選手の記憶
=天井正之(3期生・現監督)
▶ライトが2人の珍事
➍常磐JSC過渡期
▶「常勝」への契機
▶伝統の堅守と手堅い攻撃
▶人に教える楽しさ
▶徐々に活動時間増
▶厳しさも増した理由
▶時代に漏れず「体罰」も
▶1991年スポ少交流Vで
▶叱っていた内容
❺常磐JSC成熟期
▶監督交代の意図と経緯
▶「日本一監督」への野望
▶現監督の見解
▶低学年「常磐キッズ」発足
❻前代未聞の謹慎処分
=全国2大会同時出場NGに
▶2005年全日本学童決勝へ
▶同年スポ少交流出場を断念
▶スポ少で1年出場停止処分
▶軟連でも同様の処分
❼40年間で一番の思い出
=全国初出場を決めた日
▶1986年南東北代表決定戦
▶山の中の球場に驚いて
▶最後のアウトに苦労して
▶一番弟子の学び
【1984-2003全国大会戦績】
❽総括
▶常磐の「誇り」
▶全国で勝つのに必要なこと
▶「体罰」との決別
▶これからの常磐への想い
▶家族への感謝
▶愛弟子からの感謝と誓い
▶人生における「常磐」
(完)
福島・常磐軟式野球スポーツ少年団
[初代監督/団長]大平清美
おおひら・きよみ●1949年、福島県生まれ。俊足の主に捕手・外野手として20代半ばまでプレーした。いわき市立湯本一中で県大会準V、磐城高では夏の甲子園にあと1勝が2度。日大を経て地元に社会人軟式・平クラブを創設して国体4位に。1984年、地元の旅館組合らで創立した常磐軟式野球スポーツ少年団の初代監督となり、86年に全国スポ少交流初出場、1991年と93年に優勝。5年目の1988年に全日本学童初出場。2000年に後進に道を譲るまでの16年間で16回の全国出場と「常勝」の礎を築く。現在も代表・団長としてグラウンドに立つ
40年で36回の全国出場
学童球界で由緒のあるメジャーな全国大会は、夏の2つしかない。全日本軟式野球連盟(JSBB)が主催する全日本学童軟式野球大会マクドナルド・トーナメントと、日本スポーツ協会(JSPO)が主催する全国スポーツ少年団軟式野球交流大会だ。
いずれも40年以上前に始まっており、今日へ至るには予選の方式や出場枠と割り振り、開催方式など変遷を経ている。それでもとにかく、今も昔も高校野球の甲子園の比ではない競争倍率を誇る、夢のまた夢舞台である。
2年連続23回目の出場だった昨夏の全日本学童は2回戦進出。ベンチには団長の姿も
1984年創立の常磐軟式野球スポーツ少年団は、3年目の全国スポ少交流出場を皮切りに昨夏の全日本学童まで、両大会合わせて36回も出場している。そして全国スポ少交流は3回優勝、全日本学童も2010年に初優勝。
初出場からの四半世紀で、いずれの全国大会にも出られなかったのは1987年、1996年、2001年、2013・14・18・19年しかない(コロナ禍で中止の2020年除く)。ほぼどの夏も、常磐ブルーが夢舞台を彩ってきているのだ。
1988年に初出場した全日本学童大会(上)を、2010年に初制覇している(下)
またさらなる驚きは、「2大会同時出場禁止」ルールの発端となっていた事実だ。大平清美団長の1年間出場停止処分と引き換えに、同ルールができたとも言える。詳しくはインタビュー動画にあるので割愛するが、暴力的な言動など不名誉で処分されたわけではなく、「勝ち続けた結果」であったことを先にお伝えしておきたい。
「常に強くあれ!」
スポーツも勝負事ゆえ、真剣にやるほど勝ちたくなるもの。50歳の若さで指揮官の座を降りた大平団長はしかし、自分が日本一監督になりたかったのではなく、「監督が誰で選手が誰であろうと、常磐が強くなることしか頭になかった」と熱弁する。
かといって「オレが!オレが!」の他チームの指揮官を否定するでもなく、「チームを強くするより、長く続けることのほうが難しいよね」とさらり。そのために、余力を十分に残しながらタイミングを見計らって愛弟子を新監督に据え、今日までグラウンドで指導育成をサポートしているのだ。
古希を超えた今日もグラウンド全体を見渡しつつ、個々への指導も日常的に
学童野球に限らず、国内のスポーツ界や学校生活でも体罰が当たり前にあった昭和の時代。そこから1990年代までは、「オレの暴力も有名だった」とも語る。だがそれも目の前の結果で感情的になってのものではなく、チームを勝たせるためのひとつの手段。試合中のミスに対して手をあげたことはないという。
現指揮官の天井正之監督(下写真右)は、創設時に8人しかいなかったメンバー(当時小4)の一人。6年時には看板打者としてチーム初の全国出場(全国スポ少交流)を果たしているが、予選の県大会は準決勝まで音なしで腐りかけていた。そのときに監督(大平団長)から諭された言葉を今も肝に銘じているという。
「打撃がダメなら守備で、守備もダメなら走塁で、走塁もダメなら声で…。誰でもどんなことでも、チームに役立てることというのがあるんだよ」
スポーツ指導者のモラルが社会問題化する以前から、やめていたという体罰。いつの時代でも、それは褒められたことではないが、初代監督兼団長のチーム愛と教えにウソもブレもなかったことは、今日のチームのあり様からしても明らか。
古巣が皆の拠り所
天井監督やコーチ陣や5人の元NPB選手に限らず、OBたちが小学生時代の古巣に戻ってきては練習を手伝う光景が必ずある。
投手を中心とする堅守と、小技と足を絡めた手堅い攻撃。「常磐の代名詞」とも言える野球は、大平団長がプレーした古豪の高校野球部に起因する。20代半ばまで、地元の福島県いわき市でプレーした名手だった。インタビューはその現役時代の回顧から始まる。
「常に強くあれ! これからも全国を狙えるチームでいてくれたらと思います」
故郷のチームと教え子と、家族への愛は尽きることがない。時代と人は移ろえども、大平団長が築いた礎が常磐にある限り、どこまでも繁栄が続くことだろう。