【編集長コラム】第5回
「自分を犠牲にしてチームに尽くす。そういうことを今の子たちは嫌がる。みんな自分が試合に出て、自分が打ちたいんです…」
大学野球の強豪チームの監督の嘆き節。試合後の会見でそれを聞いたのは2年前だったが、かつての私なら激しく同調していたに違いない。
四番バッタークラスを集めて並べたところで、必ずしも勝てない、というのは一昔前のプロ野球で実証されている。侍ジャパンが世界一に返り咲いた先の第4回WBCでは、近藤健介(ソフトバンク)、中村悠平(ヤクルト)らワキ役の渋い働きも効いていた。また本来なら主役級の巨人の四番・岡本和真は本職ではない一塁を守り、大会序盤は低調ながら最終打率は.333、四死球はチーム最多の9つあった。
それらはつまり、打線が文字通り「線」になっていたことの裏付け。その目的は「勝利」でしかなく、多少なりとも個々の自己犠牲の精神が介在していたとも思われる。
大谷翔平(エンゼルス)が当たり前のように二刀流でプレーし、MLBデビュー直前の吉田正尚(レッドソックス)が自ら侍入りを望んだのは、自身の夢舞台だったからだという。一方、一選手としての損得から二刀流や侍入りを固辞する決断もありえただろうし、負傷した際など相当なリスクも覚悟の上での英断であったと私は思っている。
「でも、監督!」
ともあれ、そういう大なり小なりの自己犠牲をはらむ攻撃が、相手より多くの得点を稼ぐ(=勝利)可能性を高める。これは学生野球も同じだろう。しかし、私は冒頭の指揮官の嘆きに対して、こう問い直してみたかった(実際にできない根性なしです)。
「でも監督、4年間の学費と寮費で親たちがいくら負担しているか、ご存知ですか? その額を知っていたら、何が何でもメンバーに入ってヒットの1本も打ってやろう! という大学生の心情は理解できないではありません」
学生野球の聖地「神宮球場」。ここに憧れるのは学童球児だけではない。全国の多くの大学チームがここでの頂点を目指している
その野球部の費用(学費+寮費)の額を私は知らないし、私立と公立の違いや在籍する学部学科、地域などによってもバラつきはあるという。大学でもガチンコで野球をやりたい、その上の社会人やプロの夢も抱いている、という高校3年生の最も大きな受け皿は私大の野球部で、首都圏では費用がざっと「1000万円」前後である。これらは3年ほど前、私自身が息子の野球部の進路説明会で聞いたものだから、間違いない。
恥ずかしくも、長いこと野球報道の世界に身を置きながら、私はその瞬間まで費用のスケール感をまるで知らなかった。しばらくして、高校の野球部寮から一時帰省してきた息子が「進路未定」であることを確認してから、「1000万円」も伝えた上で、このように話した。
「1000万円は正直、今の我が家には軽くない。ただ、それはトーちゃんの問題だから、オマエが気にすることじゃない。オマエが小さいころからどれだけ頑張ってきたのか、トーちゃんはよく知っている。だから、大学でも死ぬ気でレギュラーを取って活躍するために頑張り抜く、という決意ならおカネのことは何も心配するな! でも、そこそこやれて思い出になればいいかな、くらいに考えているなら、大学野球はそんなに甘くないし、体育会ではなく、サークル活動で野球をしてくれ…」
それから取材者の私には新たな視点が生まれた。端的に言うなら「親目線」。春の大学日本一を決める全日本大学選手権、秋の王者を決める明治神宮大会は、高校野球の甲子園ほど知られていないが、出場するだけでも至難で誇りである。またその舞台からドラフト候補になる選手も少なくない。
他方、親目線からはスタンドの応援席、そこにいる学生服(控え部員)の数や雰囲気も気になる。そして試合後の取材などで時間に余裕があれば、メンバー外の部員たちは試合組にどういう関わり方をしていて、普段はどういう活動をしているのかを聞いたりもした。
一概には言えないが、残念ながら大量のメンバー外の「飼い殺し」状態も珍しくはない。「放置プレー」と言い直してもいいが、どちらにしても親とすれば憤懣やるかたない。当事者の大学生だって、名門大の「野球部出身」という肩書きと引き換えにする、圧倒的に無為な時間の何と長いだろうことか…。
大監督に「NO!」
千葉県の国際武道大には、岩井美樹監督という名伯楽がいる。満68歳。2017年と18年は大学選手権準優勝、22年秋には大学球界最多のリーグ戦700勝を達成した。前任校の東海大(首都大学リーグ)で133勝、これに武道大(千葉県大学リーグ)での勝利も加えた最多レコードはなお更新中で、プロ球界へ送った教え子も多数いる。
そんな名伯楽の命に「NO!」を返して、「オマエみたいなヤツは初めてだ」と言われた大学生がかつていた。その彼が、およそ四半世紀前をこう回想する。
「大学野球(春・秋にリーグ戦)では、だいたい3年生までにメンバー(約30~40人)に入れなかったら、裏方に回るんです。マネジャーとか学生コーチとか。当時のウチの大学(武道大)もそうで、私は3年春もメンバーになれなかったので、選手として先々を続けていくのは難しいんだなとは悟りました」
そして案の定、名伯楽からの「学生コーチをやれ!」という指示にはしかし、頑として首を縦には振らなかった。学童時代からチームの中心で、高3夏には甲子園でもプレーした実績とプライドもあったのだろう。
「そんなに落ち込まなかったし、野球が好きだったんでしょうね」
前代未聞の引退拒否。恩師に盾を突く形となっても現役にこだわり続けた彼はその後、メンバー組の打撃投手なども買って出てチームに帯同。そして4年春のリーグ戦では初のメンバー入りも果たす。リーグ優勝後の大学選手権は登録外も、聖地「神宮球場」までメンバー組と行動をともにしたという。
無名監督の気付き
卒業後の彼は高校の保健体育科の教諭となり、千葉県の私立高校で硬式野球部の監督に。
「目指していたのは甲子園だけです」
後にも先にも聖地とは無縁の高校。野球部には専用の野球場など潤沢な設備があるわけでもない。本気で甲子園を目指して入ってくる部員もゼロだったという。だが、大志を抱く指揮官は容赦がなかった。一昔前までは主流だった、高圧的なスパルタ指導だ。
「365日24時間、管理してやろうと思っていました。練習もやればやるほど、勝てると考えてましたし、(部員へ)オマエらなんかに休ませねーよ、と…」
それも15年を過ぎるあたりから変化が生じた。きっかけは、とりわけコントロールの難しい学年があり、部を引退後の素行の悪さから何かと問題が起きたことだったという。
「原因はオレだな、と自分で気付いたんですよね。悪いのはこの子たちじゃない。部を引退するまでの2年半に問題があったんだ、と」
その気付きは心の中に留めたままで、表に向けて方針転換を宣言したことはないという。だが、確実に行動が変わっていった。その最たる例が、冬季3カ月間の週2のアルバイト指令だ。秋の大会も終わってから、全部員と保護者を集めて意図を説明したという。
「野球部の活動として12月から2月までは週2回、アルバイトをしてもらいます。バイト先探しも履歴書を書くのも採用面接も、すべて自分でやってもらいます。そして社会に出て働いてみることで、今の自分がどれだけ通用するかを確かめてきてください…」
部の責任者として学校の許可を取り、活動の目的と趣旨を記した統一の文書だけは、求人先に向かう各部員に持たせた。そして半ば強制ながらも、冬場に社会勉強をした部員たちは翌夏、過去の最高成績に並ぶ県大会3回戦まで進出した。
「劇的な変化や効果が目に見えたわけではないですね。ただ、社会で視野を広げることで、今やっている野球の意味とか、どんな成長ができるのか、何が身についてくるのかとか、物事に対する価値観を持てるようになったのかなと感じました。あとはそれぞれのバイト先など、部を応援してくれる人が確実に増えたのも良かったと思います」
なるほど!連発
斬新な試みもコロナ禍に阻まれる中で、監督自身に新たな意欲がわいてきた。
「もっといろんな野球に触れたいな、と。高校野球の指導者でいるとそれが限られてしまうし、息子が学童野球を始めたこともあるし、幅広く活動したいという想いが強くなりまして」
2022年の夏をもって勤務先の高校を退職。約20年間の指導者時代に自ら学んで得た、広範な知識とノウハウも生かしながら、選手・指導者・保護者をサポートする仕事を始めている。新年に始めた野球の『中3塾』は大盛況で、この夏以降はコマ数が倍以上に増えるという。
ウォーミングアップから「なるほど!」の連続。合理的な練習プログラムに、穏やかな笑顔と理知的で細やかな指導からは、かつての「高圧的なスパルタ式」の絵がどうにも浮かばない。でもとにかく、幅広い活動の一環として、『学童野球メディア』では初となる連載の監修を快諾いただいた。
選手だけではなく、保護者と指導者も幸せにする。そのための『メンタルコーチング』がテーマ。7月1日公開予定の第1回まで、名前は伏せておきたい。
(大久保克哉)
7月1日より月1回の連載が始まる