満59歳。昨夏は久しぶりに全国大会も経験した茨城のベテラン監督はなお、学び心も情熱も枯れていません。指導歴30年、チーム消滅の危機を救ってくれたのも、しかるべき方向へと自分を導いてくれたのも同志たちだそうです。堅い絆で結ばれている中でも、とっておきの智将を新たに紹介してくれました。バトンは関東から北信越へ――。
(取材・構成=大久保克哉)
いたばし・いさお●1965年、埼玉県生まれ。小5のときに地元・北川辺町(現・加須市)で創設された、北川辺スターズ(現・北川辺ウォーターズ)で野球を始め、主に捕手としてプレー。北川辺中の軟式野球部では三番・二塁で県大会出場、県立高の硬式野球部では主将も務めた。就職に伴い、隣県の茨城・古河市に転居。長男が入団した上辺見ファイターズでコーチを経て監督となった2000年に、当時6年の次男らと全日本学童大会初出場。2005年秋の新人戦で茨城大会優勝、2023年全国スポーツ少年団交流大会に初出場など、チームを全国区の強豪に。多くの指導者の交流の場ともなっている、年末恒例の上辺見ファイターズ交流大会を2014年から主催して10回を数える
[茨城・上辺見ファイターズ]板橋 勲
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吉川浩史
[新潟・五泉フェニックス]
よしかわ・こうじ●1970年、新潟県生まれ。新潟市立鏡淵小で3年から野球を始め、高校まで市立校で捕手一筋。白新中の軟式野球部から高志高へ進み、五番打者として3年春に県ベスト16。転職とともに五泉市に転居し、長男が入部した五泉フェニックスで2007年からコーチを務めて2009年から監督に。2010年に息子2人と全日本学童大会初出場、翌11年も次男と同大会出場。さらに次男が6年生となった2012年は全国スポーツ少年団交流大会初出場と、3年連続で夏の全国出場を果たして全国1勝も挙げた。息子たちが卒団後もチームに残り、今日まで指揮官を務める。秋の新人戦では最高位となる、県大会で2020年に続いて2023年に2回目の優勝を果たしている
酸いも甘いも知る相棒
子どもではちょっと持てないくらいに重い、鉄製のオリジナル。ホームセンターで材料を買い、知り合いに溶接も学んで自分で制作した“マイトンボ”。これは私の唯一の自慢と言えるものかもしれません。
今ではサビ色も目立ちますが、欠くことのできない私の相棒。朝一番の6時にはグラウンドに出て、まずはそれで地面を平らにします。それからまた全面にブラシを掛けて整え、ダイヤモンドの距離を測ってベースを置いてから選手たちを迎える。
活動日の土日祝日は、それが私の絶対のルーティン。力のないチームのときでも、野球の神様に少しでも味方をしてもらえたら――この一心で続けてきて、気付けばコーチ時代を含めてもう30年近く。今では低学年チームのコーチたちも手伝ってくれますが、一人でやっていた時代も長くありました。
手製のマイトンボは、幼子では持ち上がらないほどの重量
指導者になった当初は、地域に埋もれた弱小チーム。ダイヤモンドのベースも適当に感覚で置いて練習していました。県大会出場はおろか、町内大会の上にいつ、どういう大会があるのかなど、誰も知らないような状況でした。
出発点がそこだっただけに、“マイトンボ”と同様に「上辺見ファイターズ」というチームにも名前にも、愛おしい気持ちがいっぱい。加齢とともに愛着は増すばかりです。
昨年は全日本学童の県予選決勝で敗北も、スポーツ少年団交流大会の関東予選を突破して23年ぶりに夏の全国舞台に上がった
総和町(現・古河市)の大会で初めて優勝したときには涙が出ました。みんなと握手して回ったことも、よく覚えています。勝ったらすべて、子どものおかげ。負けたらすべて、指導者の責任――この考えも30年、変わっていません。
県大会に出られるようになってきてからは、常にそのトップ、優勝を目指しています。6年生が多い少ないも関係なく。野球は必ずしも強いチームが勝つのではなく、弱いチームでも勝つことがありますよね。
茨城県のトップにほぼ君臨している茎崎ファイターズの吉田さん(祐司監督=第6回参照➡こちら)も、そういう考え方の指導者だと思います。負けても絶対に、選手の頭数とかレベルを言い訳にしませんよね。昨年は全日本学童大会出場をかけて、県予選決勝で戦わせていただきました(6対18で敗北)。
同志たちに救われ、学ぶ
茎崎はずっと格上のライバルなんですが、一方では同志でもあるんです。ウチが年末に主催する上辺見交流大会は、去年で第10回を数えましたが、初開催を強力に後押ししてくれたのが吉田さんでした。
ウチは当時、6年生が卒団すると残りは4人、5人。チーム消滅の危機にあり、最後の思い出に大会をやれないかと考えていたところ、吉田さんが「いつでも行きますよ、協力します!」と。そこから始まったのがこの交流大会で、第3回大会の年からウチはまた単独チームで活動できるようになりました。
紫外線から目を護るためのサングラスを外すと、ご覧の優しい顔がのぞく
その吉田さんをはじめ、「同志」と呼べるような方々との絆が私の大きな財産。吉田さんが大会会長を務める春の東日本交流大会や、吉川ウイングス(埼玉)が主催する秋のローカル大会にも毎年お声掛けをいただき、多くの貴重な出会いが生まれています。私をこのコーナーに紹介してくれた、SNSベースボールクラブの相馬さん(一平監督)もその一人。
出会いは東日本交流大会で、私のほうから相馬さんにアプローチしました。その大会でのSNSの走塁が衝撃的だったのです。それこそ頭をカチン! とやられたような感じでした。
その年はウチもホームランバッターが不在で、走って転がして1点という野球をしており、走塁もそれなりに鍛えていたつもりでした。でも、SNSはレベルが違いました。えっ、戻れるの? と思うくらいの大きなリードで相手にプレッシャーをかけるし、どの場面でもスキと抜け目がない。
これは直接に勉強したいと思って相馬さんに連絡して、SNSの山梨まで遠征。実際に見た相馬さんの走塁指導は、子どもにもハッキリと理解ができて、勇気を与えるものでした。走者が行く場面と行かない場面とを明確に区分して、それを全員で共有しながら実践。大きなリードについては、技術的なこともありましたが「アウトになってもいいから大胆に!」という意識が浸透していました。
このときから、互いに行き来する関係が続いています。その中でわかってきたのは、相馬さんの指導は「走塁」にだけ特化しているわけではないということ。チームのカラーが毎年のように違うので、選手の能力や特性に合わせて方向性も指導内容も決まっていくのだと思います。
「単に強い打球を打っていた昔と違って、今はイレギュラーするような緩いゴロをノックで。奪えるアウトを確実に奪えるチームがやっぱり強くなっていきますね」
また人としての懐の深さは、私なんて比ではない。相馬さんは試合中でも決して感情的にならない。怒鳴り声を聞いたことがないです。それも今の時代になる以前から。それでいて、選手たちの成長度がまたすごいんです。年末の上辺見交流大会で見たチームと、翌年のゴールデンウイークに遠征して戦ったときのチームとが、別ではないのかと思ったことが何度もあります。
相馬さんも指摘されていたように、チームを取り巻く環境はよく似ています。私たちが活動する古河市も、栄えている大きな街ではないし、新しい人がどんどん住み始めるような町でもない。
そういう中で、すごい子を集めて圧倒的な力で勝つというよりは、目の前にいるメンバーをいかに育てて、県のトップへもっていくかを考えて実践する。おそらく、こういうところでも多くが重なるのだと思います。
指導者も成長しなければ
私は口ベタで、人と話すのもそんなに得意ではないんです。でも野球になると、それも関係なくなる。良いものをどんどん学びたいという思いが上回り、声を掛けずにはいられない。私から紹介する、新潟の五泉フェニックスの吉川さん(浩史監督)もまた、そうして知り合えた一人です。
「教えてもいないことを試合中にガーガーと言ったり、大差をつけられてから急に『楽しくやれ!』とか。こういうベンチワークは間違いだと私は思います」
初めて五泉と試合をしたのは確か、2011年の東日本交流大会。五泉はこの年の夏に全国に出て(全日本学童大会に2年連続出場)、次の年はスポーツ少年団の全国大会に出られている。
私はやはり、衝撃を受けたのですが、それは実績や知名度に対してではありません。ベンチの吉川さんが、とても温かいムードをつくって良い野球をされていたんです。ワーワーと言うのもまるでなくて、いつも落ち着いていて優しい。それでいて選手たちは野球をよく知っていて、プレーも試合運びもそつがない。
当時の私といえば、弱いチームを何とかしようとガムシャラのあまりに、子どもを理不尽に叱ることも度々。今思うと、当時の選手たちには申し訳ない気持ちなんですけど、子ども以前に指導者自身が成長していかなくちゃいけない! そう気付かせてくれたのが吉川さんであり、五泉との試合でした。
守備が終わると、真っ先にベンチを出てナインを迎える姿も印象的だ
どういう練習をして、どうしたらそういう指導者になっていけるのか。吉川さんに学びたくて私から電話をさせてもらい、8月に初めて遠征が実現。古河市から五泉市までは車で数時間、子どもには厳しい移動だったかもしれません。でも、着いたその日に3試合、翌日も2試合。吉川さんは全国大会に出ているチームを従えて、最大限の歓迎をしてくれました。
そして翌年から、夏休みの五泉遠征がウチの定番の合宿となりました。8月なので子どもは休みですが、保護者はほとんどが働いています。結果、上級生が下級生の面倒もすべてみる、という夏合宿のルールが自然に生まれて、子どもたちもそれを楽しみにしてくれるように。
残念ながらコロナ禍で、直接の交流は途絶えてしまいましたが、お互いに時間ができたこともあり、吉川さんと電話で話す機会はむしろ増えました。車移動で数時間ですから、ちょっと行き来するというわけにはいきません。
ウチは2000年、五泉は2011年を最後に全日本学童大会から遠のいています。でも、ともに目指しているのはそこです。これからも互いに刺激をし合いながら、夏の大舞台を目指しましょう! と伝えたいですね。
23年ぶりの夏の全国は…
昨年の夏、ウチはスポーツ少年団の全国大会に初出場することができました。全日本学童の県予選決勝で茎崎に負けた翌日には、千葉の豊上ジュニアーズと埼玉のウイングスと練習試合をさせてもらいました。どちらも全国区の強豪で、指導者間でも交流があるチーム。
スポーツ少年団の全国大会の最終予選(関東大会)がすぐ迫っていたので、茎崎に負けて感傷に浸っている暇は私にも選手にもありませんでした。そして同志たちの協力のおかげもあって、気持ちを立て直して関東大会も突破して全国へ。
ところが、晴れの全国舞台へ行ってみると、開幕前日になって「試合は5イニングで、投球は50球まで」などの急なルール変更を主催者から一方的に伝えられて…。酷暑は全国大会のときにだけあるものではなく、同様の条件下で厳しい予選を突破したチームが集っていたのです。憤る大人が少なくなかったことも理解できます。ウチの子どもたちも、いろいろと感じるところがあったのは間違いありません。
それ以上の言及は控えますが、その舞台も経験した子が4人残っている今年は、何とか全日本学童大会へ導いてあげたいと奮闘中です。
今年は選手16人、4人の6年生が昨夏の全国を経験。毎年の方向性は教え子でもある4人のコーチ陣と話し合った上で進んでいく。「方針がブレないのがウチの強みのひとつです」